はじめに

これは善光寺道を歩いた記録である。
歩いたのは平成一四年から一五年にかけてである。
善光寺道は中山道の洗馬宿から善光寺へ向う道で、道筋などは別掲の図(10~11頁)を見ていただきたい。善光寺道というのは通称で、正しくは「北国脇往還」という。北国脇往還といえば北国街道(中山道追分宿から越後高田宿まで)も正しくは北国脇往還で、これと区別する必要があり、「北国西脇往還」というのがより正しい言い方である。
また、明治になってからは「北国西街道」といわれた。この本では通称の善光寺道と呼ぶことにした。そして、京、大坂方面からの旅人にならって洗馬宿から善光寺へ向う。文中、左、右というのはすべて善光寺へ向ってである。
善光寺道は三つに区分してみることができる。第一の区間は洗馬宿から松本宿までの区間で、今はほとんど町場化した平坦な道である。しかし、途中松本城などがあって見どころは多い。
第二の区間は岡田宿から桑原宿(聞の宿)までの道で、三つの峠を越える難所である。しかし、同時に変化があって景色のいいハイキング・コースである。
第三の区間は稲荷山宿から善光寺宿までで、善光寺平の西端を進む案外静かな道である。途中にあるコ一つの峠とは、岡田宿と苅谷原宿の間にある苅谷原峠、会田宿と乱橋宿(聞の宿)の間にある立峠、麻績宿と桑原宿(聞の宿)の間にある猿ヶ馬場峠である。いずれも標高一000メートルほどで、特に高い山越えではないが、十分な準備が必要である。ただこの区間のほとんどの部分が「中部北陸自然歩道」と重なっており、環境庁と長野県の道標が要所に立っているので、これに従って行けばいい。猿ヶ馬場峠の北側の下り道は重なっていない。

北国街道は政治的、経済的な道で、参勤交替の大名が通り、佐渡の金銀を江戸へ送る要路であった。これに対し、善光寺道は庶民の道、信仰の道ということができる。大名行列が通ることはなかったし、善光寺参りの旅人や善光寺方面からは伊勢参りの人々が主に通る道であった。
善光寺道について書かれた史料は多くはない。
『信府統記』
『千曲の真砂』くらいである。これらは宿駅の様子、宿駅間の里程に詳しい。
また、善光寺道を通った紀行文には、
松尾直蕉「更科紀行』(貞享五年の紀行)
菅江員澄『わかこゝろ』(天明三年の紀行)
正岡子規『かけはしの記』(明治二四年の紀行)
などがある。これらは短いもので断片的である。
善光寺道全体を記したものには、
豊田利忠『善光寺道名所図会』(嘉永二年刊)
がある。善光寺道の名所や宿場の様子を絵入りで詳しく紹介している。
善光寺道の新しい調査報告書には、
県教委『歴史の道調査報告書羽善光寺道(北国脇往還)』(昭和五七年刊)
がある。詳細なもので参考になる。
この本は、旧街道を歩くことに主眼を置き、道筋について詳しく記述した。これから歩く人のために、特に分れ道は右すべきか、左すべきかをはっきりさせ、略図を添えた。ただし、正式な縮尺ではないので、歩く時は地図(二万五OOO分の一の地図その他)をご用意いただきたい。
善光寺道は江戸時代の道で、慶長一九年(一六一四)頃までに道筋が定まり、宿駅制度が整ったとみられる。いまからおよそ四OO年前である。しかし、明治になって鉄道が通り、今また自動車道が整えられたので、さしも賑わった善光寺道もすっかり人通りが途絶えてしまった。車道の下敷きになったところは別として、山間の道はかろうじて道跡をとどめているに過ぎない。
そのような古道の記録にどれほどの意味があるのかはわからないが、とにかく平成初期における善光寺道の現状をまとめてみた。

注)『信府統記』松本藩(水野家)が享保九年(一七二四)に編纂した領内および信濃国一円の地理、歴史などに関することを集録したもの。
注)『千曲の真砂』佐久郡野沢村(佐久市)の瀬下敬忠(一七O九i八九)が宝暦三年(一七五三)に著した信濃史に関する名著。中に善光寺道や北国街道のことが書かれている。

なお、和年号については西暦を、昔の度量衡はメートル法による換算値をカッコ書きしたが、読みにくくなるので一部は省略した。巻末付録に「和年号西暦対照表」「単位の知識」(長さ、量、重さ、面積、お金)の表を掲げたので参照していただきたい。

おススメ会社設立セット

  1. 店舗販売最安レベル9,800円!会社設立印鑑3点セット(柘植)

    ※通信販売は行っておりません。
  2. 会社設立センター・起業家応援パック

    会社設立・起業家応援パック(司法書士+税理士)まとめて頼む=とってもお得な起業家応援パッ...
  3. 会社設立ブランディングセット

    せっかく開業した貴方の法人、告知やご案内は、終了していますか??「会社設立ブラン...