松本地方から善光寺を目指す道は古代からあったと思われるが、現在に残る道筋になったのは戦国時代頃からで、宿駅制度が整ったのは江戸時代初期である。その頃の松本藩主は小笠原秀政で、松本藩は、南は木曽谷の出口、本山宿から北は麻績宿に至る範囲であった。
五街道の一つ中山道に宿駅制度が敷かれたのは慶長七年三六O二)とされる。その頃の中山道は本山宿、洗馬宿、塩尻宿を通らなかった。木曽郡との郡境は本山宿の南、日出塩村の南端にある桜沢にかかる御境橋で、そこから東の山中に入り、牛首峠を経て小野宿に下り、さらに東の山中へ進み、小野峠を越えて下諏訪宿に通じていた。その道筋としたのは家康の側近大久保長安であったが、彼の死(慶長一八年)後松本藩主小笠原秀政が、幕府から塩尻まわりの現在の道筋とするように命ぜられ、慶長一九年には完成させたとみられる。同年小笠原秀政から本山、洗馬、塩尻の三宿が宿駅業務を命ぜられている。
このとき秀政は自領内にも宿駅制度を定めたようで、善光寺道の郷原、苅谷原、会田、青柳、麻績の各宿場に「伝馬定之事」という命令書が残っているという。猿ヶ馬場峠より北の場合も、稲荷山宿は慶長一九年頃宿駅業務を始めたようである。丹波島宿の場合は、それより先慶長二ハ年に北国街道の宿駅として成立していたとみられる。こうして善光寺道の宿駅制度は、慶長一九年までに整ったようである。
規模常備人馬は北国街道と同様、人足二五人、馬二五疋であった。
参勤交代の大名行列が通る道ではなかったので、正式な本陣はないが、武家や高貴な人の泊まり宿を宿内では本陣と呼び習わしていたようである。問屋は上、下二軒のところが多く、半月交代で勤めていた。
(3)成り立ちと規模