洗馬宿から

洗馬宿を出ると畑中の道である。洗馬宿までは木曽谷に続く山間の道であるが、このあたりから山は後に退き、いわゆる松本平になる。松本平の南部は昔桔梗ヶ原と呼ばれる広い野原だった。今は畑の中に転々と新しい住宅が建ち始めている。
そんな道をたんたんと約二キロも進む。やがて中原集落(塩尻市太田区のうちの中原地区)に着く。左側に本棟造りの堂々とした旧家がある。
道祖神 その家の前に道祖神(文字)がある。「大正九年二月(以下不明)」と年号がある。高さ約七0センチの自然石。
その先五0メートルで「中原」の信号がある。善光寺道はまっすぐ進むが、太田の清水を見るために左へ曲がる。
太田の清水 西へ向かって少し行くと、左へカーブしながら坂を下る。奈良井川の段崖である。下り切ると太田の集落である。集落中央右側の道端に大きな句碑があり、その前に清水が湧いている。それが「太田の清水」である。
句碑は上部に「太田の清水」とし、その下に「木曽どのの馬あらふ里よ水清し」とある。昭和八年一一月の建立。
傍らの標柱に「伝説太田の清水今井から馳せつけた兼平が義仲にここでおうて、義仲の馬を兼平がこの清水で洗い元気を回復させた」と書いてある。昭和五三年七月、塩尻史談会塩尻青年会議所の設置。
このように太田の清水は二つある。「善光寺道名所図会』の文はこちらをいい、絵は洗馬宿のおうたの清水を描いているように思われる。

街道に戻り北をめざす。しばらく行くと左右に歩道がある広い道になる。新しい工場団地ができて道を広げたようである。

一里塚 洗馬宿から一里くらい歩いた。もう一里塚があってもいいはずであるが、塚も塚跡の標識もなかった。二万五OOO分の一の地図でおよその距離をみると、やはり工場団地の手前付近になる。塩尻市誌にも記述はない。例の古絵図を見てみる。
[正保の信濃国絵図]
新洗馬宿村と堅石郷原村の中間に一里塚の印がある。
その横に大怒日(田か?)村があり、「此塚より堅石郷原迄拾六丁五十間」と書き込みがある。約一・八キロであるからやはり工場団地手前あたりになる。
[寛文年代の絵図]
新洗馬町村と堅石郷原村の聞に一里塚の印がある。その横に太田村が描かれている。
[元禄の信濃国絵図]
洗馬村と郷原村の聞に一里塚の印はない。ただ、郷原村の北に印があるが、これは堅石村と原新田村の間にあった次の一里塚のことと思われる。
結局、元禄の絵図を除く二つの古絵図に一里塚の印があるので、江戸時代にはあったがその後になくなったということであろう。
ところが、平成一五年四月に通りかかると、中原集落のはずれ、右側のぶどう畑の一角に新しい標柱が立っていた。郷原工場団地の手前約0・五キロ地点である。

善光寺道一里塚跡
平成一四年一二月建立 太田区

としてある。約一五センチ角の石柱で、高さ約一・二一メートル。その場所は推定していた場所とほぼ同じである。

工場団地を過ぎ、さらに少し進むと左右に大きな変電所がある。左は中部電力塩尻電力所、右は東京電力塩尻送電所である。その北側に小さな四つ角がある。右へ行く道は車が通れるが、左は小道で車は通れそうもない。馬頭観音の道標その四つ角左右に道標を兼ねた馬頭観音がある。

[右側]
(表)馬頭観世音(文字)
     左り志ほ尻×(塩尻道)
(裏)慶応三卯年三月吉日
     郷原宿小林口

北西に向いているから、善光寺方面から来る旅人に塩尻道を教えているのである。

[左側]
(表)三角形の自然石に小さな舟形のくぼみを造り、その中に馬頭観音立像を浮き彫り。
左横 左り はしどろ(はしば道)
(裏)当宿塩原吉左衛門
右横 慶応三丁卯年五月三日

善光寺へ向かう旅人に左へ行くのは「橋場道」だと教えているのであろう。左へ少し行くと奈良井川がある。

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