変電所のところにある馬頭観音は、郷原宿が近いことを示している。少し進むと郷原宿に着く。
郷原宿はほぼ南北にまっすぐで、入口にも北の出口にも鈎の手はない。宿場に入るとすぐ左手に諏訪社がある。この地の産土神という。町並みの特徴は各家と道とのあいだに小さな前庭を持つことである。枝ぶりよく男定された木々が通りかかる人の目を楽しませている。
昔ながらの本棟造りの家、二階建格子戸の家、大戸に障子張りのくぐり戸がある家が点在し、宿場時代の面影を色濃く残している。
上問屋 宿場中央右側の白壁の塀をめぐらせた家が上問屋赤羽家である。そこだけ塀を後退してあり、道が広くなっている。
郷原宿には問屋が二軒置かれ、下問屋と半月交代で勤めていた。昔上問屋前には高札場があり、隣宿までの駄賃銭が掲示されていたが、今はない。その代わりに大きな自然石の「郷原宿」と刻んだ標石が置いてある。
本陣 上問屋の向い側の山城屋という屋号札を出している家が本陣の赤羽家である。本棟造りの堂々とした構えである。
善光寺道は脇往還で参勤交代で往来する大名はなかったので、正式な本陣ではないが、地元の人は本陣と呼んでいる。京、大坂へ行く藩の役人などが止宿したからであろう。佐久間象山が元治元年(一八六四)京へ上るときにも泊まったという。なお、赤羽家は松本藩塩尻組の大庄屋を勤めたこともある。
下問屋 本陣から数軒先の左側。本棟造りの家が下問屋の赤羽家である。
吉井戸 下問屋前に宿場時代の古井戸が残っている。横に説明板がある。
郷原宿がある桔梗ヶ原一帯は水が乏しく、飲み水にも事欠くありさまで、宿場内に三つの共同井戸があった。これはその一つで、他は「お茶屋」付近と郷福寺前にあった。郷福寺前のものも残っている。
郷福寺 宿場の北端、街道右側。真言宗智山派。現本堂は安政五年(一八五八)の大火以後の再建という。明治天皇御巡行の時、明治一三年六月二五日、この寺で小休された。門前にその碑がある。
芭蕉句碑 郷福寺本堂前にある。
野を横に馬曳きむけよ 郭公
五尺庵露白建之 安永田年十月十二日 連中
とある。この句は『奥の細道』所載。芭蕉が奥の細道の途次、那須野を馬で横切った時、馬子から短冊に何か書いてくれと頼まれ、即興的に詠んだ句という。桔梗ヶ原を那須野に見立ててこの句を選んだのであろう。
郷原宿の昔 成立は慶長一九年頃とみられる。時の領主小笠原秀政が幕府から中山道の道筋を塩尻まわりに変更するよう命ぜられた時、善光寺道にも宿駅制を定めたが、その時郷原宿ができたとみられる。郷原宿はすでにあった集落が宿場に指定されたのではなく、奈良井川東岸にあった上野集落を移して宿つくりをしたといわれる。
近くの住戸集落は郷原宿の北に続く堅石村へ移ったという。
規模など 宿の長さは三町三二間(約三八五メートル)。用水を街道中央に流していたが、今は西側に移っている。屋敷割は間口五1六間以上で広い。奥行きも宅地四O間分をとり、その奥にさらに畑地六O間分をとっている。問屋ははじめ一軒で勤めていたが、後に上下問屋二軒になった。旅龍屋は木賃宿も含めて一O数軒あった。大旅寵は穀屋、田中屋、住古屋、大和屋などがあった。
家数 慶安四年、道の東側一七軒、西側二一軒、計三八軒。安政二年七二軒。
人数 安政二年三三六人。文化四年と安政五年の二度大火があり、宿内の家のほとんどを焼失した。
村高 正保の頃一四六石余、天保郷帳三八一石余。松本藩領。享保一O年から幕府領。
堅石町村
郷福寺を過ぎると堅石村(塩尻市広丘堅石)である。といっても家並が続いているので、その境はわからない。しかも堅石地区も本棟造りの旧家が点在し、郷原宿がまだ続いているようである。
堅石地区に入ってすぐ左へ入る小路がある。堅石三社神社である。この村の産土神。堅石村は長い。どこまでも家並みが続く。しかし、だんだん新しい住宅だけになる。
馬頭観世音 約一キロ進むと信号のある交差点に出る。道が斜めに横切っている。その右側の角に「馬頭観世音(文字とがある。人の背丈ほどの自然石で、側面には「堅石町村安政七庚申三月造立」と銘を入れる。
「町村」というのは普通宿場町の場合に使われるが、堅石村は自分では町村と称していたようである。
原新田村
そのあたりから家が建て込んできて、やがて原新田村(塩尻市広丘原新田)に入る。馬頭観音から五00メートルほどで信号のある四つ角に出る。右へ行くと賑やかな商店街の先に広丘駅がある。
原新田の分去れその四つ角の先約二00メートルで分去れがある。こちらからは右手から来る道と合流するのであるが、善光寺方面から来ると鋭角の分れ道である。
分岐点に道標がある。三0センチ角で高さ約六0センチの石柱。
右 京
いせ きそ通
左 東京 いな 道
すわ
(裏)明治二己巳年建之
とある。
「木曽通」は「きそ道」と読んだ資料もあるが、私には「通」としか見えない。この分去れの様子は『善光寺道名所図会』にも絵が載っていて「……原新田の入口に分かれ道あり、石標に右京いせ道、左いなすわ道松本の方より来る人の左右なり……」と書いてある。江戸時代にも同じような道標があり、明治二年に建て替えられたのであろう。
なお、今の道標は「東京」となっているが、前の年明治元年七月江戸が東京に、九月に慶応が明治に改められている。
原新田の一里塚 道標のところから左へ入る小路がある。その先に山ノ神社・津島社があり、境内に「一里塚跡」の石碑が立っている。裏に建立者の原新田ふるさと苅つくり推進協議会と協賛者(法人三人)の名前、平成九年一一月吉田建之と銘がある。
碑の横の説明板によると、一里塚があったのは「塩尻市大字広丘原新田字壱里塚二二三番地」で、石碑から東南方向へ三0メートルの現在(株)筑摩野精器南工場棟の敷地にあったという。この説明で充分であるが、街道から一00メートル以上も離れているのが気になる。念のため例の古図も見てみる。
[正保の絵図]
原新田の分去れのすぐ北に描かれていて、「此一里塚より村井迄廿六丁」(約二・八キロ)と書き込みがある。ただし、村の名前は「野村新田」となっている。原新田村は野村新田村とも呼ばれていたらしい。
[寛文の絵図]
原新田村の分去れから郷原宿のほうへ行ったところに描かれている。
[元禄の絵図]このあたりに一里塚の印はない。また、街道筋に原新田村または野村新田村の名前そのものがない。しかし、所在地番まではっきりしているから、ここに一里塚があったのは確かと思われる。
なお、ここに一里塚があったことを示す証拠があった。それは原新田の分去れを描いた『善光寺道名所図会』に、一里塚らしい一対の塚(頂上には松がある)が描き込まれているのである。しかも街道左側で、かなり離れた位置にある。ちょうど一里塚跡の説明板のいう「字一里塚二二三番地」付近と思われる位置である。
もっとも「名所図会』は詞書で「左の畠中に老松の二株千歳の枝を口てよし有けに見えたり」としであって、一里塚とはいっていないが、これはどうみても一里塚のようである。絵を掲げたのでごらんいただきたい。(五一頁)また、『長野県史近世資料編第五巻(二)中信地方』二四五頁所載の資料N0・五二ニ、『塩尻組村々方角井神社仏閣帳』(正徳三突巳年二月)にもこの一里塚のことが書かれている。
「一、村井町……午の方郷原町江一里一二丁、此間ニ原新田村、村井町・5二七丁壱里塚アリ、……」
昔はこの分去れの北に原新田村の中心部があった。今は分去れを東京、いな、すわ道に入ったJR広丘駅付近が賑わっている。
明治天皇碑分去れから約一00メートル行くと左に郵便局があり、その向い側に黒い冠木門の本棟造りの旧家がある。平林家で、門前に明治天皇広丘御小休所の碑が立っている。おそらくこの家は庄屋だったかも知れない。
明治天皇松本地方御巡行日程
明治二二年六月
一六日 宮城発
二三日 入信、下諏訪泊
二四日 午前七時御発輩、今井村で御板輿に召し換えられ塩尻峠へ、峠で野点、一一時頃塩尻駅着、川上清方で御昼食、原新田平林茂樹方御小休、信楽村中田貢方にて御小休、松本神道事務局に着御(四柱神社)
二五日 午前七時帯勲者九名奉拝、八時出発、松本裁判所、師範学校、開智小学校へ、午後二時一O分行在所御発輩、村井駅中村宗次郎方御小休、郷原駅郷福寺御小休、洗馬駅志村巌方御小休、午前六時半本山駅小林吉夫方着御
二六日 本曽福島宿へ
赤彦下宿跡 明治天皇碑がある平林家の斜す向いに「島木赤彦下宿跡牛屋」という案内板を出す旧家がある。赤彦はこの先にある広丘小学校の校長を勤めたことがあり、その時の下宿跡である。
短歌公園 赤彦下宿跡から少し進むと左手に広丘小学校がある。校舎に沿って左へ入ると松林の中にいくつかの歌碑が立つ公園がある。一角に本棟造りの旧家を移築した短歌資料館もある。
赤彦の歌碑
いささかの 水にうつろう夕映えに
菜洗う手もと 明るみにけり
柿の村人 赤彦
その他、太田水穂、若山牧水の歌碑、四賀光子、若山喜志子、潮みどりら三人で一つの歌碑がある。
塩尻市は短歌の町として名高い。太田水穂は広丘原新田の出身(夫人は四賀光子)、若山喜志子(夫は若山牧水)は広丘吉田の出身、潮みどりは喜志子の九歳年下の妹、本名太田桐子。
吉田村
広丘小学校を過ぎると広丘吉田地区である。道はだんだん右へカーブしてJR線をまたぎ、その東側へ出て国道一九号線に合流する。このあたりの交通量の多さと騒音の大きさは聞きしに勝るものがる。歩道があるから歩くことはできるが、それでも大型車が猛スピードで通ると風圧で飛ばされそうな気がする。
約一・五キロ進むと長野自動車道の下をくぐる。間もなく国道は右へそれで行くが、善光寺道はそのまま直進している。分岐点にガソリンスタンドがある。
旧道に入って間もなく右手に「牛馬観世音」と彫った高さ二メートル余りの石塔がある。街道筋では馬頭観音や牛頭天王はよく見かけるが、牛馬観世音は珍しい。不思議に思ってあたりを見まわすと、これは食肉加工会社の庭で、どうやらその会社が牛馬の霊をなぐさめるために建てたものらしい。吉田村はそのあたりまでである。