牛馬観世音を過ぎる頃からは村井宿分(松本市村井町)になる。宿場はもっと先である。
神明社 商店と住宅が混在する町を約五00メートル進むと左手に神明社がある。宿場の南端に神明社を肥ったといわれているから、村井宿はここからはじまるのであろう。神明社の勧請年代は不明で、現社殿は大正年間の建築という。
口留番所跡 神明社の向かい側に一時期松本藩の口留番所が置かれた。今その位置は電気店、民家、駐車場になっている。ただ、神明社入口に「村井番所跡」の標柱(村井町町会と村井町史談会の設置)が立つ。口留番所は享保一O年(一七二五)からで、中山道本山宿から吉田村まで幕府領になり、村井宿が松本藩の南口になったからである。二O年後の延享元年(一七四四)その部分を松本藩が預り領として管理するようになり、口留番所がまた本山宿に移されたので廃止された。
高札場 口留番所前には高札場があったという。今その近くの第一公民館前に移され、往時の姿を残している。
神明社からおよそ一00メートルで、村井駅から東へ伸びる道を横切る。そこからは旧宿場町らしい町並みになる。土蔵造りで白と黒のコントラストがはっきりした「なまこ壁」の商家があるからである。しかし、この宿場は明治二O年、同二六年、大正四年と度重なる大火で宿場時代の古い建物はすべて失われたという。
脇本陣・問屋 宿場中央右側、土塀をめぐらせ、庭の入口に冠木門を構えた本棟造りの家が脇本陣兼問屋の山村家である。現在建物前の庭が山村医院駐車場になっている。入口右手に「村井宿」という木住と案内板が立っている。
口留番所役人宅 脇本陣兼問屋の山村家の北隣が村井口留番所役人を勤めた山村氏宅である。
本陣・問屋 脇本陣兼問屋の向い側二1三軒目の冠木門がある大きな家が本陣兼問屋の中村家で、現在中村酒造を営む。
明治天皇碑 本陣前の中村家に「明治天皇村井御小休所」の碑がある。天皇は明治一三年六月二五日午後松本を出発、木曽に向かわれたが、第一回目の休憩をここでとられた。
常照寺 明治天皇碑がある中村家の北側を右へ入ったところにある。浄土宗。本尊は阿弥陀如来。
天正年間(一五七三1九二)の開山といい、はじめ松本浄林寺末であったが、同寺は明治の廃仏接釈で廃寺になり、総本山智思院末に属したという。
村井宿の昔 成立は慶長一九年とみられる。この年中山道が本山宿、洗馬宿、塩尻宿まわりになり、同時に洗馬宿からの善光寺道にも宿駅制が敷かれたとされている。けれども村井宿は洗馬宿や郷原宿のように新たに村寄せして造られたのではなく、すでに集落を形成していた村井村が宿場に指定されたという。西隣の小屋村に古くから村井氏が居館を構えていて、村井村はその城下町のようになっていたと考えられている。
宿の長さ 神明社から北端の鈎の手まで五町九間(約五六二メートル)。
旅寵など 旅龍一五軒、木賃宿七軒、計二二軒、馬宿一軒、茶屋一六軒。他にわら細工、行商、紺屋、飴屋、大工、水車屋、鍛冶屋、綿打、桟織、一豆腐屋、中馬稼ぎなどがあった。
家数 元禄八年本屋敷五九軒、半屋敷二軒、門屋敷一二軒、計八二軒。天保二年総家数八一軒とほぼ同じ。
人数 安政二年五九八人(男二八六、女三三己)。
村高 正保の頃六六三石余、天保郷帳九五八石余。松本藩領。
泉龍寺 街道からそれて、駅の北側で線路を渡ると小屋村(松本市芳川小屋)である。踏み切りの先で道は南へそれで行くが、そこを直進する細い道が泉龍寺の入口である。天正一五年(一五八七)一二月創立という古利、本尊は釈迦牟尼仏。曹洞宗。
小屋城跡 泉龍寺前の道を右へ行き、集落内の四つ角付近に村井氏居館、小屋城があったという。かつてそこに標柱と説明板があったが、平成一四年春道路拡幅工事で一時取り払われていた。しかし、平成一五年四月には新しい説明板が立てられた。
村井氏は古代埴原牧の牧監をしていた埴原氏から発展した犬甘氏の支族で、鎌倉、室町、戦国時代を通じてここに居館を構えていたが、天文一七年(一五四八)七月武田信玄が侵攻して落城。その後信玄はこの城を普請して府中(松本)攻略の拠点とした。
都波岐神社 泉龍寺前を南へ行ったところにある。道に面して鳥居があり、木立の中に長い参道と社殿がある。祭神は猿田彦命、創立は不詳。本殿、御門屋、舞屋、鳥居の配置など古式を留めているといわれる。
街道にもどる。
村井宿の北端はほぼ直角に右へ曲がる。鈎の手があった名残である。今は左へも道ができて丁字路になっている。
間もなく国道一九号線に合流する。このあたりは村井宿下町という。この付近に古代東山道の覚志駅があったといわれる。他に塩尻焼町説、同市堅石説、奈良井川東岸の同市広丘原新田説などがある。
東山道について
東山道という言葉は二つの意味に使われる。一つは古代の五幾七道といわれる行政区画の一つとして、他の一つは東山道区域内をつなぐ道の名前として用いられる。
五幾とは幾内に五つの国があるからで、大和、山城、河内、摂津、和泉の諸国。七道とはその他の諸国を東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七つの道に区分したことによる。
行政区画としての東山道には近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥、出羽の八ヶ国が含まれる。武蔵国ははじめ東山道に含まれていたが、宝亀二年(七七一)東海道に編入され、出羽田は和銅五年(七二一)越後固から分立し東山道に編入された。
道としての東山道は都から東山道諸国の国府を通り陸奥園、出羽国に至る当時の国道で、東国経営の重要な道であった。七道のうち最も距離が長く、『延喜式』では八六駅、駅馬八四一疋、舟一O隻が配置されていた。駅間距離は三O里(約一六キロ)毎に一駅を置くように定められていたが、山坂や川など地形的なこと、集落の有無などにより、実際には一定ではなかったようである。(注・当事の一里は現在の約五三三メートル)
長野県内の東山道は、美濃国坂本駅を出て神坂峠を経て信濃国に入り、園原の里を経て阿智駅に至る。その後伊那谷を北上し、塩尻から国府があった松本に達し、四賀村から保福寺峠を越えて上回に出て、さらに碓氷峠を越えて上野国へ抜けるコースであった。
また、途中錦織駅(四賀村)付近で東山道本道から分れ、麻横から善光寺付近を通り、野尻湖付近を経て直江津にあった越後国府に至る支道があった。
信濃国の東山道には別表(五八頁)のように一一の駅家が置かれ、一四五疋の駅馬が常備されていた。また支道には四つの駅、二O疋の駅馬が常備されていた。駅の所在地については清水駅(小諸市)の位置が明らかになっているだけで、その他はまだ特定されていない。道筋についてもそのほとんどが確認されていない。
さて、国道一九号線に出る時、歩道橋を渡って東側へ行くのがいい。その先すぐにある松電バス停(村井下町グリーンパル前)脇には村井の一里塚跡の碑と芭蕉句碑があるからである。
一里塚跡の碑
(表)一里塚跡
(裏)北国西街道旧村井宿 昭和廿五年十一月三日
芳川村公民館建之
とある。傍らの説明板によると、塚は「周九メートル四面、高さ二メートルの塚があり、上に周二・五メートルの松があった」が、明治四O年頃道路拡張のため取り壊されたという。なお説明板ではこの一里塚跡の碑は「昭和二四年」に建てられたとなっているが、碑文は前記の通り「廿五年」である。また、県教委の『歴史の道調査報告書』では、この石碑は「松電筑摩野中学校バス停北」に立っているとしている。そのバス停はこのバス停の一つ北のバス停で、約二00メートル北にある。近年の国道拡幅工事の時にでも少し移動されたらしい。この付近に一里塚があったのは間違いなさそうである。
芭蕉句碑 一里塚跡の碑と並んでいる。
~せ越
信濃なる富士見橋こゆる日は
雨降て 山皆雲に隠れたり
しぐれ 富士を見ぬ日そ 面白き
とある。この句碑について『善光寺道名所図会』に「村井を出て富士見橋側に句碑あり」と書いてある。この句は『野ざらし紀行』中の一句で、箱根の関を越える時に詠んだもの。貞享元年四一歳の秋の作。
句の前文に「関こゆる日は雨降りて山皆雲にかくれたり」とある。この句碑の建立者がそれをもじったものとみられる。
芭蕉は『野ざらし紀行』の帰りに木曽街道から甲州街道を通って江戸へ向ったとされているが、その時村井まで横道にそれたという説はない。また、貞享五年の『更科紀行』では、模捨の月を見るため美濃から入信し、木曽路から善光寺道を通って槙捨に向った。その時ここを通ったはずであるが、その時の句ではない。
村井宿から富士は見えない。ここでいう富士とは安曇野の西に饗える有明山(信濃富士)のことといわれている。また富士見橋はどこにあったのかわからなくなってしまった。なお、句の「」は「雰」が正しく霧のことである。