松本宿(1)

薄川にかかる栄橋を渡ると松本城下である。今本庄一丁目であるが、昔は博労町(馬喰町)といった。伝馬人足の町である。
薄川は松本城下町の外堀の役目を担っていた。昔の絵図には出入り口に土塁を築き、柵をめぐらせ、番所を設けていた。また近くに十王堂を杷った。
十王堂 本庄一丁目に入って最初に右へ行く小路にある。市教委の「十王堂跡」の標柱が立ち、石塔がたくさん残っている。中央北向に大きな観音様があって、いつも新しい花が供えてある。その他馬頭観音や庚申塔にまじって党字だけの供養塔が二つある。頭を山形にした板状の石で、山形部分中央に一字、左右に二字を配し、中央の浅いくぼみの中に五字(下の方は見えない)を刻む。党字を読めないので意味不明。

松本藩は城下町の東西南北の出入口に十王堂を配したという。これはその南口のものである。
袖留橋 博労町は約三00メートルで、北の端を流れる小さな長沢川を渡ると本町になる。川には古めかしい石橋がかかっている。橋の左側に「みど利は志(みどりはし)」、右側に「緑橋」と名前が刻んである。明治一一年の建造。石は大手門の石垣を転用したものという。そばに「史跡袖留橋」という標柱がある。昔は袖留橋といったが、石橋になったとき緑橋と名前を変えたという。

伝説 袖留橋のはなし
昔、長沢川は細い川であったが、善光寺道と交わるところだけは堀のように広げてあり、袖留橋がかかっていた。松本城主小笠原秀政は家康から大坂夏の陣に参陣を命ぜられ、長男忠備は在城を命ぜられた。しかし、密かに忠備も次男忠真とともに参戦し、天王寺前の合戦で秀政、忠筒父子は戦死し、忠真は重傷を負った。
出障の時忠惰の乳母がこの橋のたもとまで見送りにきた。不吉の予感があったのか、乳母は振袖姿の忠備の袖にすがって離さず、忠備は出立できなかった。そこでとうとう両袖を切り落として乳母に与え、ようやく出陣していった。そして、秀政、忠僑父子はついに帰ってこなかった。

袖留橋を渡ると本町五丁目(深志二丁目)である。そこから道が広くなり、高層ビル街になる。この道をまっすぐ進めば松本城大手門に突き当たる。約一00メートルの右手に極楽寺入口がある。
本町 松本は親町三町といって中心となる町が三町あった。本町はその親町の一つで、他には中町、東町があった。これらはその順で善光寺道に沿った町である。本町は南から五丁目1一丁目と続く。一丁目の先の大手橋(現千歳橋)までで、大手橋を渡ると大手門があり域内に入る。大手門に続く町であるから、京では朱雀大路に当る町である。発祥は松本城築時に同時に形成されたとみられ、各種問屋が軒を連ね、城下の荷物の集散地であった。
天神小路 五丁目の北端に右へ入る小路がある。角に「天神小路」という標石が立っている。これを行くと東詰に深志神社があり、境内に慶長一九年(一六一四)小笠原秀政が勧請した天満宮も杷られている。
本陣・問屋 天神小路入口反対側付近に本陣・問屋の倉料七郎左衛門家があった。間口二七間(約四九メートル)もあり、六間間口(約一一メートル)や三間間口(約五・五メートル)が普通の松本の町で飛び抜けた広さであった。そこは今、駅方面にも道が聞けて四つ角になっている。
倉科氏は天正一O年(一五八二)時の城主小笠原貞慶から問屋職を命ぜられ、安曇郡松川村から移り、江戸時代を通じてその職にあった。本町の大名主で本陣職も兼ねていた。

天神小路を過ぎると本町四丁目になり、間もなく松本駅から東へ伸びる広い道と交差する。昭和時代までは浅間温泉行きの電車も通っていた大通りであるが、昔は「鍋屋小路」という鍋職人が住む幅二間(約三・六メートル)の小路であった。もちろん駅方面への道はなく丁字路であった。
鍋屋小路の東のはずれには銭座があったという。
松本銭座 寛永二二年(一六三六)から置かれた。請元は今井勘右衛門、鋳造工は三輪忠兵衛という者であった。銭座は寛永年間(一六二四1四回)に全国に二一ヶ所置かれ、江戸の金座や銀座とともに幕府の貨幣制度を支える重要な役割を果たした。
今市民会館北側に記念碑が立っている。(ただし、現在市民会館は新築工事中で、一時撤去されている)。
ほんまちえびす その交差点左手向うの角に「ほんまちえびす」と刻む新しい大きな像が立っている。平成二年の建立。
横に

左 松本駅
右 松本城

とあり道標を兼ねている。
産物会所 その四つ角付近からは三丁目で、右側の現松本郵便局の場所に藩の産物会所があった。領内の産物を統制保護する役所で、それまで個人宅にあったのを文政二二年(一八三O)からここに移した。
飛脚問屋 産物会所の南隣にあった家が飛脚問屋の堤屋で、八軒間口(約一五メートル)の近藤家である。
右側の歩道を歩いていくと、さっきの植え込みの聞に新しい道祖神がある。男女二神が浮き彫りされている。よく見ると他にも丁石のように白い石が転々と置かれている。その一つは句碑である。

信濃路を過るに
雪ちるや 穂屋のすゝきの 刈残し
松尾芭蕉

源智の井戸 松本郵便局のすぐ先、信号のある四つ角を右へ入る小道を行くと、瑞松寺の前にある。今もこんこんと水が湧き出している。「善光寺道名所図会』にも「当国第一の名水」としている。明治天皇松本巡行の時御膳水になった。この井戸の記録の初見は文禄三年(一五九四)という。昭和八年に長野県史跡に指定された。
使者宿 松本宿には脇本障はなく、必要により親町三町の中のしかるべき旅龍が交代で勤めていた。寛文七年(一六六七)に他国から来る使者や賓客の宿舎として藩の公用施設使者宿が置かれた。
本町二丁目東側にあった中村三郎衛門が邸宅と長屋を藩に献納したもので、藩はこれを充てることとし、最初品川好昧に預け、延宝元年(一六七一二)一月からは中町青田伝十郎に命じ、延宝二年春からは東町三丁目の今井六右衛門に命じた。天明三年(一七八三)の火災で焼け、本町四丁目へ移転して明治維新まであったという。本町二丁目にあった時の場所は、現在山本ビルがあるところという。
今井家は松本直政時代に松本銭座の鋳銭請元をした家で、本陣、問屋の倉科家とともに大きな勢力をもっていた。
道標 伊勢町の角に手で指さす形を彫った道標がある。

南面 左野麦街道
西面 左善光寺道
北面 ☞ 野麦街道
東面 昭和五十七年八月

善光寺道を進んで行くと左は野麦街道であること、野麦街道をやって来た旅人には左が善光寺道であること、城や善光寺からの帰りの旅人に指差す方向は、野麦街道であることを教えている。
牛つなぎ石 伊勢町が本町に突き当たるところ、向う側の角にある。高さ約一メートルの自然石。人にさわられてつるつるになっているが、しめ縄が張つである。これが戦国の昔、上杉謙信が武田信玄に塩を送った時、運んできた牛をつなぎとめたという伝説の石である。そばに立っている説明板の文をそのまま掲げる。

縁起 牛つなぎ石 塩市(飴市)牛つなぎ石
町内古老口伝

永禄一一年(一五六八)一月十二日、本町と伊勢町との辻角に立つ「牛つなぎ石」に越後の武将上杉謙信公の義侠心による塩を積んだ牛車が、塩の道を通りたどり着いたと伝承されております。当時松本地方は甲州の雄武田信玄の支配下にあり、この武田方と敵方に当る今川、北条方は太平洋岸の南塩の道筋を封じ、甲州、信州の民人を困窮させた。
これを知った謙信公は武田方とは敵対関係にありましたが、日本海岸の北塩を糸魚川経由で松本方面に送りました。この日を記念して上杉謙信の義侠心をたたえ、塩に対する感謝の日として初市の日になったと伝えられております。
塩は明治三八年(一九O五)国の専売特許となったため、また当時松本地方は飴の生産日本一を誇っており、市内の飴屋さんが塩俵にちなんだ飴を作り、爾来飴市の方が通用するに至りました。昔日は一月十日、十一日の初市に行っておりましたが、近頃はこの日に近い一月の第二の土・日に催されます。子供はもっぱらダルマを売り将来の商人の原点を学びます。

牛つなぎ石から五0メートルほどに右へ行く道がある。道幅はそれほど広くないが、華やかさと落ち着いた雰囲気が入り混じった町である。それが中町で、昔も今も松本の中心商店街の一つである。善光寺道はこの中町を行く。

道標 伊勢町口の野麦街道の道標と同じ規格と大きさである。

南面 (善光寺道に向く面)
☞右せん光寺道
西面 大町街道
裏 昭和二十二年六月


松本城

ここで松本城を見て行くことにする。道標には従わないでそのまま直進する。少し行くと女鳥羽川に出る。新しい立派な橋は千歳橋という。昔は大手橋といった。千歳橋を渡ると道が右、左とクランク状に曲がっている。これが大手門桝形跡である。昔は女鳥羽川を渡るとすぐ総堀と呼ばれる一番外側の堀があり、堀の中に張り出す形で桝形が造つであった。その入口は西向きで、門を入ると桝形があり、出口は北で南向きに大手門があった。桝形は二二O坪の広さがあり、大手門櫓は五問、一O間五尺(約九メートル、二0メートル)の堅固なもので、高い石垣と土塀をめぐらせていた。大手門をくぐると城内三の丸で、広い道が本丸に向かっていた。道幅は六間半(約二一メートル)で現在の道幅と同じくらいである。左右は高級家臣らの屋敷があった。水野氏の時代には左右に四軒ずつあったという。今は高層ビル群が立ち並び、大名町と呼ばれている。
約二00メートル進むと外堀があり、今はまっすぐ外堀を渡って城内に入るが、昔はそこに橋はなかった。外堀に沿って東へまわり、太鼓門から二の丸に入る。そしてまた、元の南へまわって現在の入口付近に戻る。今そこに市立博物館があるが、昔はこのあたりを古山寺(箇山寺)といった。
そこで内堀を渡り桝形を通り、黒門から本丸に入る。これは今も同じである。太鼓門と黒門は立派に復元されている。本丸には写真でおなじみの天守閣がある。天主閣は五棟に分かれている。

天守 五重六階
乾小天守 三重四階
渡櫓 二重二階
辰巳附櫓 二重二階
月見櫓 一重地下一階附
天守閣五棟は国の所有で国宝に、松本城一帯は国の史跡に指定されている。

成り立ち
鎌倉時代信濃守護になった小笠原貞宗が、伊那にあった本拠地を信濃の中心地信府(松本)に移し、井川に館を構え、東方の山に林城を築いた。清宗の代になると館も林城に移し防衛体制を整えた。支城として西に深志城、東に桐原城、山家城、北に伊深城、稲倉城、南に埴原城を配した。この深志城が松本城の前身の城である。深志城は一族の島立右近が永正元年(一五O四)頃築いたという。
天文一九年(一五五O)武田晴信(信玄)が府中を占領し、深志城を拡張整備した。信玄は深志城を拠点にして安曇・筑摩の二郡を支配し、川中島、越後、飛騨へ侵攻しようとしていた。この時女鳥羽川の流れを城を巡るように変え、城の規模を現在のように大きくしたといわれている。
天正一O年(一五八二)武田勝頼が織田信長に亡ぼされて、深志城主は一時木曽義昌になり、その後一族の小笠原貞種になったが、すぐに小笠原貞慶が取って代わり、名前を松本城と改めた。以後この地も松本と呼ばれるようになった。
天正一八年(一五九O)石川数正が入封し、堀を広げ天守築造などを企てたが死去し、子の康長が文禄二年(一五九三)に着手し、同四年頃完成させたといわれる。(天守、乾小天守、渡櫓など)。
寛永一O年(一六三三)松平直政が入封、翌年月見櫓、辰巳附櫓を建てて現在の天守の姿になった。また、八千俵蔵も建てた(八千俵蔵は二の丸西にあったが今はない。

街道にもどる。
本町から指さす手の道標に従って右へ折れて進む。
中町 その通りは中町である。中町は本町につぐ親町の一つで、本町の方から三丁目、二丁目、一丁目と続き、北の端で左へ直角に折れ、女鳥羽川にかかる大橋まで続く。
途中三筋の枝町(飯田町、小池町、宮村町)と六条の小路(新小路、一ツ橋小路、裏小路、神明小路、広福寺小路、本立寺小路)が分岐していたが、いずれも親町と丁字交差であった。城下町の小路の典型である。この道筋は今もほとんど変わっていない。
町の長さは四町一五間三尺(約四六五メートル)で、魚屋、塩問屋のほかいろいろな商家が店を並べた商人の町であった。今も賑やかな商店街で、土蔵造り、白壁、腰から下を黒い壁に白い斜線を施したいわゆる「なまこ壁」で統一してあって見事である。これがこの町の華やかさと落ち着いた雰囲気の源なのかも知れない。中町の東の端は国道一四三号線との交差点で、ここで左へ曲がる。左手の角に翁堂という菓子店があり、前に古い井戸がある。曲がると北へ進むことになるが、すぐに女鳥羽川がある。川までは中町分だそうで、横町と呼ばれている。
東町 女鳥羽川を越えると東町である。東町は南北の町で、こちらから三丁目、二丁目、一丁目と続き、その先は和泉町である。親町三町の一つで、町の長さは六町二四間(約七00メートル)もあり、旅龍や商人の多い町だったという。今も旧街道の面影を残す町である。
山家小路の標石 女鳥羽川の先すぐ右側にある。

右 山家小路
旧宿場町旅龍屋東町三丁目
左 善光寺街道

と刻み、道標を兼ねている。裏に「東町ノ成立ハ天正十五年(一五八七)卜伝へラレ三丁目区分ハ大正三年四月デアル山家小路ノ名称ハ慶長十八年(一六二ニ)ト記録ニミエル」と書いてある。

ひかる屋 その数軒先の左側に土蔵造り、二階建て、平入りの重厚な造りの町屋がある。ひかる屋旧平林邸である。明治二O年一O月の建築で間口、奥行きとも八間(約一四・五メートル)、松本地方を代表する建物といわれる。他に土蔵数棟がある。もとは質屋を営んでいたという。同家にはかつて有栖川織仁親王、同妃殿下御通駕の際休憩所に充てられ、また伏見宮貞愛親王殿下御来松の時は御旅館に充てられたことがあった。
正行寺小路の標石 ひかる屋から約一00メートル進むと右へ入る少し広い小路がある。正行寺小路といい、手前の角に北向に立っている。つまり善光寺方面から来る旅人のためにである。

右 善光寺街道
旧宿場町旅龍屋東町三丁目
左 正行寺小路

山家小路のものと似た造りである。裏に「……正行寺小路ハ享保九年(一七二四)ノ記録ニアル」としている。

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