岡田宿

旧道らしさが残る町を進んで行くと、やがて広い道を横切り、続いて国道一四三号線に出てこれも斜めに横切る。さらに進むと岡田松岡地区(昔は松岡村)に入る。右手の道端に双体道祖神が立っている。しかし、よく見るとそれは石材店の入口で、どうやら商品か店の看板代わりに置いているようである。
馬頭観音 その先左側に田んぼが一枚あって、その畦に小さな馬頭観音が二体と何かはわからない石仏がコ一体杷られている。

さらに行くと右手に岡田小学校がある。ここはもう岡田下岡田(昔は下岡田村)のようである。その向い側の民家の庭に、筆の形をした高さ五メートルもありそうな筆塚がある。よく見かけるのは大きな自然石のものであるが、これは珍しい。間もなく広い十字路に出る。
左に大きな鳥居があり、棒の古木がある参道が続く。右へ行けば浅間温泉である。
岡田神社 鳥居から西へ約五00メートル行くと、山を背にして東向きに立派な社殿がある。岡田三ヶ村の総鎮守で、式内社を称している。祭神は保食神。当社は里宮で、女鳥羽川上流の稲倉にある水口社が奥宮である。中部北陸自然歩道の道標その四つ角向う側右手に木の道標が立っている。環境庁と長野県が指定した中部北陸自然歩道のものである。中部北陸自然歩道は善光寺道と重なっているらしく、これから先同様の道標が要所要所に立っているので、これに従って行けばよい。

そこからは左右とも岡田町である。実は街道左側は少し手前からすでに岡田町なのである。しかし、岡田宿はもう少し先である。
このあたりはこの町の中心らしく、右側にJAの店があり、左側には市の岡田出張所がる。道幅はかなり広い。昔も岡田宿内は四間幅(約七・コ一メートル)あったという。
地蔵尊 間もなく左に小さなお堂に納まった地蔵尊がある。高さ約一・六メートルもある立派なもので、堂内には他に大日如来(文字)、仏像を陽刻したもの三体(立像二、坐像一)が安置されている。坐像は右ひざを立て、そこに右手の肘を乗せ、頬に手を当てている。如意輪観音のようである。
昔岡田宿は前後の出入口に地蔵尊を杷ったというから、これが南の出入口のものであろう。

岡田宿に入ったのである。そうすれば昔ここに南町口の木戸があったはずである。もちろん、今は車道でそんなものは残っていない。岡田宿の入口には鈎の手はなく、まっすぐ北に続いている。やや上り坂である。
地蔵尊のはす向かいに金網フェンスがあり、その中に「開道記念碑」が立っている。他の字は読めないので詳しくはわからない。
道祖神 間道記念碑の少し先左側、掲示板の根元にある。幅約六0センチ、高さ約一メートルの文字碑。横に「岡田駅六丁」とあるように見える。年号は読み取れなかったが、嘉永五年(一八五二)の建立という。
本陣・問屋 道祖神のところは宅地で、その先に五葺き二階建ての大きな家がある。これが江戸時代を通じて本陣・問屋を勤めた所家である。堂々とした風格のある建物は、目立っているのですぐ分る。
脇本陣 脇本陣は橋爪氏が勤めていた。本陣の南隣の空地のところにあった。今はその広い敷地が残るだけである。
道祖神と名号碑宿の北端は鈎の手になっていて、右へ直角に曲がる。ここには昔桝形があった。その角に道祖神と名号碑が立つ。
道祖神 文字碑で高さ約一メートル。
名号碑 道祖神より少し大きい。

念仏講中
細切南無阿弥陀仏
二世安楽
(横)明和四丁亥廿八口口
当町念悌講造立

鈎の手を曲がり家一軒分で分れ道である。そのまま進むと稲倉峠を経て保福寺宿に通じており、さらに保福峠を越えて北国街道に出て、中山道追分宿で中山道に合流して江戸へ行く。左へ折れる細い方の道が善光寺道である。
道標 その分去れに古い道標がある。約二五センチ角の高さ約八0センチの石柱。

右 江戸海道
左 せんく王うし為(ぜんくわうじ道)

と彫つである。年号はない。
この道標の横に中部北陸自然歩道の道標もあって、「二・九キロ苅谷原峠」と教えている。こちらは大きくて目立っているから、古い道標を見落としても、道に迷う恐れはない。
口留番所跡 道標の西側に松本藩の岡田口留番所があった享保一O年七月、それまでの領主水野氏が改易になり、麻績組、会田組が幕府領になったため、岡田宿と会田宿の聞が幕府領との境界になった。そこで新たに領主となった戸田氏は麻績口にあった番所を享保一一年四月岡田宿北部に移転した。それが岡田口留番所である。
番所役人は天明元年(一七八一)までは水野家家臣浅井氏が勤めていたが、その後は本陣・問屋所氏の分家で、岡田町村庄屋の所家が明治二年の廃止まで勤めていた。
宿北端の鈎の手北側の家である。同家には岡田宿や番所に関する古文書が多く保存されているという。

そこからはまた旧街道らしい道幅になる。
聖徳地蔵尊 点在する住宅の中の道を少し行くと、左手に墓塔が一列に並んでいて、奥にお堂が見える。お堂には聖徳地蔵尊と書いてあり、身の丈二メートル余りの立像が安置されている。境内には高さ約二・五メートルもある「馬頭尊」(文字碑で安政七庚申年)をはじめ九体の馬頭観音、「南無阿弥陀仏」の名号碑、庚申塔などがある。岡田宿は前後のお地蔵さんによって守られていたといわれるから、ここが岡田宿の北の端なのであろう。岡田宿の昔岡田宿は長さ約三町四O間(約四00メートル)で、宿場内の道幅は四間(七・三メートル)であった。道の中央に用水を流し、馬つなぎのため並木があった。今その用水は道端の地下を通し、並木は残っていない。
成立については藩主水野家の時代に編纂された『信府統記』に次のような記述がある。
「古へ岡田村ハ宿場ニアラザリシトコロニ、松本ヨリ保福寺へモ苅谷原へモ駅程遠ク、其上峠ヲカ、エタル故二、明暦二丙申年(一六五六)、忠職公始テ岡田町卜シテ宿場ニ定メラレシナリ、岡田ハ往古馬次ニアラズ、松本ヨリ保福寺・苅谷原共ニ駅遠ク、其上峠アルニヨッテ水野忠職公近辺在家ヲ寄セテ町トナシ宿場ヲ定メ給フ」

とある。しかし、それより前の正保四年(一六四七)に成立したとする資料も残っているという。
本陣一、問屋一(本陣兼務)、脇本陣一、伝馬は二五人、二五疋を常備しておく定めであった。
旅龍は木賃宿を含め一O軒、他に米宿二軒(お蔵米を江戸へ送るためのもの)。
茶屋六軒。
家数 元文四年九六、慶応二年一O五
人数 元文四年四七二(男二一五、女二五七)。慶応二年五00。
村高 慶安四年六一二石余、天保郷帳六五五石余。松本藩領。
岡田宿を出ると畑中の道である。点々と新しい住宅がある。やがて右手は田で左側だけに家がある小さな集落に入る。伊深一里塚町である。江戸時代は伊深村で、本郷はもう少し先にある。
伊深の一里塚 この一里塚も町名が残るだけで塚跡も標識もない。『岡田の里』によると「この一里塚は慶長九年三六O四)北国脇往還(俗称善光寺道)ができた時、郡奉行小宮山織部之丞らによって築かれた」という。
『正保の絵図』には岡田町の北に稲倉道との分岐点があり、その近くに一里塚の印がある。なお、稲倉道にも並ぶように一里塚の印がある。
石仏群 伊深町の左側にある。
道祖神(文字) 高さ約一・八メートル。裏に「慶応四年戊辰正月吉日一里塚中」と銘がある。他に小さい道祖神(文字)が一体。
大日尊(文字) 舟形の石。
馬頭観世音(文字) 「明治廿七年口口青木氏」と刻む。他に小さな馬頭観音など七体が並んでいる。
道標石仏群のすぐ先に左へ里道が分れているが、その角に木柱が立っている。

向って左西小路を経て伊深城に至る
向って右伊深を経て□
昭和四一年の設置

道標のところから少し行くと国道二五四号線の下をくぐる。そのあたりが伊深の本村のようである。山が近くなり、道はかなり上り坂である。

おススメ会社設立セット

  1. 店舗販売最安レベル9,800円!会社設立印鑑3点セット(柘植)

    ※通信販売は行っておりません。
  2. 会社設立センター・起業家応援パック

    会社設立・起業家応援パック(司法書士+税理士)まとめて頼む=とってもお得な起業家応援パッ...
  3. 会社設立ブランディングセット

    せっかく開業した貴方の法人、告知やご案内は、終了していますか??「会社設立ブラン...