保福寺川を渡ると左へ曲がり北に向かう。ここから四賀村取出地区で、会田宿はもう少し先である。
浄雲寺 取出集落に入るとすぐ右手に浄雲寺がある。浄土宗。街道から山門と本堂が見えている。
本堂は寄棟造り茅葺で向拝付。屋根は今トタンで覆われている。山門は入母屋造り瓦葺の楼円形式で、寺伝では寛政年間の建立という。立川流の建築様式で立派なものである。楼上に釈迦三尊と羅漢三一三体を安置するという。門前にたくさんの石造物がある。
道標 浄雲寺前に道標がある。浄雲寺伽藍に気をとられて見逃しゃすい。高さ約七0センチの自然石。善光寺方面(北)に向けた手の形を彫り、その下に「せんこうし道」と刻む。その他「十一ことあるように見える。なお、『四賀村の石造文化財』には「安全十二里」と彫ってあるという。おそらく善光寺までの道程と思われる。廻国塔浄雲寺から約一00メートル先の右側に「奉納大乗妙典日本廻国」と彫った塔がある。他に「嘉永二巳酉年十二月死去日月清明願主俗名竹内幸次良」と刻む。安政四年の建立。そばに水神様も杷つである。
しばらく北に向って進むと、左に四賀村役場がある。
この付近から左右に軒の連なる町になる。やがて穴沢川と会田川の二つの橋を渡る。
馬頭観音群 二つの川の間右側に二列に並んだ石仏群がある。前列は馬頭観世音(文字)四体、牛頭大日如来(文字)一、不明一の六体。後列は道祖神二寸うち一つは文字碑で、他の二つは円形のくぼみを造り、中に男女二神を浮き彫りしてある。不明一。
この石仏群が会田宿入口を示している。
新町 会田川からは新町(立町)に入る。新町は南北の町で、土蔵造りの家、なまこ壁の家、格子戸のある家が残り、宿場町の風情がただよう町である。昔は町の長さ一町四一間(一八三メートル)であった。新町の北端は信号のある四つ角で、ここを左へ曲がる。その東西の通りは中町である。
道標 四つ角向う側の角に古い道標がある。二0センチ角、高さ約六0センチの石柱。
欠けた部分にはおそらく「せん」とあり、「左せんかうし道」となっていたと恩われる。
西面 右 いせろ(道)
これも欠けた部分に「京」か「きょう」とあったはずである。
長安寺 四つ角を中町へ曲がらないで、細い道をまっすぐ行くと急な坂道で、少し上った右手に旧会田中学校跡があり、その上の段にある。臨済宗の古剃。
弘安元年(一二七八)鎌倉建長寺の大覚禅師の創建と伝えられる。今は無住で荒れている。この寺の観音堂は善光寺道の立峠登り口にある岩井堂で、善光寺参りの人々が行き帰りに必ず参拝したという。
中町 四つ角を曲がると中町である。文字通り会田宿の中心で、宿場時代の繁昌ぶりを一不す古い建物も残っている。今もJAの店、信用金庫支店、商店などがあり、四賀村銀座である。
町の長さは二町八間(約二六九メートル)であった。道筋は変わっていないので今も同じであろう。
脇本陣 『東筑摩郡松本市塩尻市誌』にある「会田宿町割図」(次頁)によると、中町の中央付近左側に脇本障が描かれている。おそらく現在四賀村商工会の駐車場になっているところとみられる。横内氏であった。
横内氏は問屋も兼ねていたが、後に問屋は本町の下問屋大河内氏に代わった。
本陣 少し行くと岩井堂沢(うつつ沢)が街道を横切っている。その手前右側にあった。今JAのガソリンスタンドになっているところである。やはり横内氏であったが、文化年間に本町の上問屋堀内氏に代わった。
岩井堂沢を越えて少し行き、街道は丁字路を直角に右へ折れる。そこからは本町である。曲がらずにそのまま行けば明科駅方面に通じている。
道標 その丁字路に古い道標がある。二0センチ角、高さ約八0センチ。
おそらく欠けた部分には「右善」とあり、「右善光寺道」となっていたと思われる。
東面 京いせろ(道)
これも欠けた部分には「左」とあったのであろう。本町通りに向いた面で、善光寺方面からの旅人に突き当りを左へ行くのが京、伊勢道と教えている。
西面 江戸ミち
せんこうし×(せんかうし道)
欠けているところに「右、左」とあったはずである。
西からの旅人にとっては右が江戸道で、左が善光寺道である。
道標 本町の左側一軒目と二軒目の間にある。前記の道標から一0メートルと離れていない。三0センチ角、高さ約二・五メートル。本当は大正天皇即位記念と大正四年一一月に会田に電燈がついた記念碑で、道標を兼ねているのである。
裏に「大正四年十一月建設」とある。
本町 本町は道標からまっすぐ北へ伸びる上り坂の町である。曲がり角近くは特に急坂である。町の長さは三町三五間(約三九一メートル)。新町、中町は賑やかさがあったが、本町は商店はなく静かな町である。それだけにかえって旧街道の面影をよく残している。
問屋 左側三軒目が下問屋大河内氏で、その北隣が上問屋堀内氏である。上問屋は立派な門構えで、老松があり往時の隆昌振りを今に伝えている。上問屋は文化年間以後は本陣も勤めた。
下問屋ははじめ脇本陣の横内氏が兼ねていたが、のち問屋は大河内氏になったという。両問屋は半月交代で勤めた。
上問屋の前には高札場があったが、今は残っていない。なお、前記の会田宿町割図には上問屋の前に鳥居が描かれているが、これは今もある津島牛頭天王社のことと思われる。
常夜燈 宿の北のはずれに常夜燈が一対ある。燈身正面に「善光寺」、横に「安政二年乙卯十一月吉日」とある。会田宿の昔古代信濃国府から越後国府に通ずる東山道の支道がこの地を通り麻績へ抜けていた。その道は後の善光寺道と完全には重ならないが、ほぼ同じルlトであった。
鎌倉時代、この地を領したのは東信の海野氏の一族会田氏で、その城下町としてしだいに発展した宿である。戦国時代、会田氏が虚空蔵山に山城を置き、会田宿の北に居館を構えたが、その士町の一部が宿場になったという。したがって、江戸時代以前からすでに宿場になっていたとみられる。
成立 近世の宿駅制が整ったのは、他の宿場と同様、慶長一九年領主小笠原秀政によって宿駅に指定された時である。
宿の長さは新町(立町)、中町、本町三町で七町四四間(約八四四メートル)、道幅は宿場内三間幅
(約五・四メートル)であった。本町と中町は軒先に六尺1九尺の広場を設けていた。
文久三年家数二七軒、旅龍一四軒、木賃宿四軒、馬牛宿三軒、茶屋三軒、馬稼二三軒であった。伝馬の常置人馬は他宿と同様に二五人、二五疋とみられるが、馬は宝永七年四八疋いたとされ、伝馬の用には足りていた。
村高 正保の頃四二四石余、天保郷帳七五九石余。はじめ松本藩領、享保一O年幕府領(寛保三年以降松本藩預かり地)。
常夜燈を過ぎると広々とした畑中の道で、上り坂である。右手遠くに会田富士と呼ばれる虚空蔵山が見える。戦国時代会田氏が要害を置いた山である。
約一00メートル行くと左側に道祖神が二つ並んでいる。二っともかなり大きい文字碑である。
広田寺 さらに一00メートルほと進むと右側に広田寺大門があり、東方に伽藍が見えている。広田寺は会田氏の菩提寺である。屋根に上田の真田氏と同じ六文銭の紋がある。今のご住職は真田氏である。もとは同村知見寺地区にあった。永正八年(一五二)山辺の広沢寺雪江和尚の中興開山。天正二年(一五八一二)会田氏が小笠原氏に亡ぼされた時兵火で焼失。本堂は享和一二年(一八O三)の再建、山門は天明三年(一七八二一)の建築。本堂と山門は立派な建築で、『善光寺道名所図会』にも広田寺の絵が載っている。
会回塚 広田寺へ行く途中、うつつ沢の手前で左へ行く道がある。角に広田寺第二駐車場がある。少し行くとうつつ沢があり、そこからさらに約一00メートル、右に畑が一枚あり、畑に沿って農道がある。その道を広田寺の方へ下ると、畑の角にしだれ桜の老木があり、その根一万に石柱がある。傍らに四賀村教委の標柱が立っている。会田塚は幅四0センチ、奥行き二五センチ、高さ約八0センチ。銘は分らなくなっている。会田氏が滅んだ翌年、戦死者の遺骨や遺物を納めたも
のという。
松沢家住宅 広田寺大門から約二00メートル上って行くと右側にある。剣術指南松沢喜一の生家という。傾斜地なので南側には石垣を積み、その上に白壁の土塀をめぐらせて、城のようである。門は茅葺の大きな門で、村の重要文化財に指定されている。門内に老松がある。芭蕉句碑さらに少しだらだら坂を上っていくと無量寺大門がある。松の大木があり、門の内外にたくさんの
石塔がある。その中に芭蕉句碑がある。
身にしみて 大根からし 秋の風
はせ越
梅室拝書 嘉永二年己酉九月雪松翁一翠建之
桜井梅室は江戸の俳人。一翠は長越(四賀村)の松翁亭中村一翠。
芭蕉は貞享五年(一六八八)八月、旗捨の月を見るためこの街道を通った。『更科紀行』はその時のもの。この句は立峠(今上っている坂が立峠への坂)で詠んだものといわれる。
無量寺 大門から右へ入る。弘法大師の伝説がある立派なお寺で、古くは真言宗であったが、武田勢の兵火で焼失。天正年間仁科信盛により中興、曹洞宗となる。現本堂は文化九年(一八一二)の再建という。
このあたりから山間の道になる。一00メートルあまり行くと左手の山裾に道祖神がある。手を取り合う男女の神が浮き彫りされている。その先に岩井堂という数軒の集落がある。街道は広い道から一時それてその村の中を行く。間もなく新道は左へ曲がって行くが、善光寺道はそのまま直進する。分れると道はすぐ細くなり旧道らしくなる。左は山で、右はうつつ沢である。
道標 細くなった道を行くとすぐ左に古い石の道標がある。
左 善光寺
弘法大師 (以下土中)
歴史の道調査報告書』によると「左善光寺近道大師霊場」と彫つであるという。そして、「左の山道を登り観音堂を参拝して岩山を登って行くと細原の上で街道と合する近道である」としている。今その観音堂へ行く道はあるが、観音堂までで、その先はなくなっている。
岩井堂(観音堂)その観音堂は岩井堂と呼ばれていて、信濃三三番観音霊場の第二O番札所である。本尊は室町時代の千手観音菩薩坐像。天平勝宝(七四九1五七)の頃僧行基が信濃各地を遍歴していた時、たまたまこの地を通り霊地ということで草房を結び、観音像を刻んで安置した。その後弘法大師が諸国巡歴の途次ここを訪れ、岩に爪で大黒天を刻み安置したという伝説がある。
お堂があるところは奇岩、怪石累々として横たわる岩山で、青松が生い茂るまさに霊地にふさわしいところである。お堂近くに一一体の磨崖仏があり、うち地蔵は高さ二一0センチ、大黒天は高さ一六0センチと大きなものである。他に一OO体観音が安置されていた(現在五二体が残るという)。