岩井堂からは右手の沢に沿って上る。すると前方にダムがあって道を塞いでいる。街道は左へ旋回して大きな田んぼを回り込みながら上り、ダムの上に出る。この道はダムを造る時に付け替えた新しい道のようである。舗装してあり、普通車なら通れるほどである。
岩井堂の一里塚 ダムの上に一本松がある。街道右側で、直径一メートルもありそうな大木である。その反対側の薮の中に「岩井堂一里塚跡」の標柱(四賀村教委)が立っている。正確にいうと標柱は二本あって、二本とも転んでいる。左塚は残っていない。右塚は松の古木のところが小高くなっていて、わずかに塚形が残っている。松は塚の上にあったものと思われる。
うつつの清水 その松の根方にうつつの清水があった。今も水の注ぎ口と石の受け皿が残っているが、水は枯れた。源泉はその少し上にあって、竹筒で引水していたという。昔、ここにはその水を利用した茶屋があって、大正時代まで残っていたという。
なお、近くに馬頭観音(文字碑)=一体がある。うち一つは「天保十三寅年九月口口」、他の二つは笑天保十四卯正月十四日」と年号がある。
うつつの清水から五0メートルほどで、大きく左へカーブするが、そこを直進する細い道がある。それは近くの山へ上るハイキングコースらしい。
さらに蛇行しながら上って行くと、突然左手にコンクリートの土手を築いた大きな池がある。周囲を金網フェンスで囲っている。
立峠登り口 今までの道と分れて直角に左へ折れて、その金網フェンスに沿って上って行く細い道が善光寺道である。ここまで上ってきた道はそのまま進み、近くの花川原峠を越え、立峠の北側で再び善光寺道と合流して乱橋宿(聞の宿)に下る。したがって今は車でもこの山を越えることができる。
分岐点に自然歩道の道標が立ち、峠まで0・六キロだと教えている。案外近いのでホッとするが、それは早すぎる。上り口付近は手を突いて這い上がるような坂道で、石がゴロゴロした全くの踏跡道である。一瞬上るのをためらう。これが六00メートルも続くのでは山登りそのものである。いっそのこと舗装された車道を行き、花川原峠越えにしようかという考えが浮かんだが、それでは善光寺道を歩いたことにはならない。古道を歩いてその史跡を訪ねるという目的から外れてしまう。思い切って上り始める。
馬頭観音 上り口の反対側に、人の背丈ほどの大きな馬頭観音がある。村の文化財に指定されていて、四賀村教委の説明板がある。光背形の石に三面六管の憤怒像が陽刻され、会田宿二七名の名前と文化一回天丑四月八日(一八一七)と銘がある。そばに小さな馬頭観世音(文字)が四体ある。
なお、馬頭観音の前に道跡が残っている。現在の車道になる前の旧道は、ここから沢沿いに下っていたと思われる。
胸を突くような坂道は入り口付近だけで、少し上るとそれほどではなくなる。約一00メートルで左へカーブし、崩れた斜面を横切る。そこは道形がないというほうが当っている。しかし、それも短い。すぐに細いがはっきりした小道になる。
間もなく尾根に出て直角に右へ曲がる。そこは小さな丁字路で、反対の左へ下る道もある。角に自然歩道の道標があり、峠まで0・四キロとなっている。道標からはジグザグと方向を変え、ついには東へ進む。ここまで来ると坂はゆるやかになるが、道幅は狭い。人一人がやっと通れるほどである。これで四O貫(一五0キロ)の荷物をつけた馬が通れただろうかと思う。注意して左右を見ていると、時々道跡らしいのが左右に分れているが、すぐ途切れてしまい通れそうもない。結局この道だけである。
昔はこの峠を上る善光寺参りの白装束の人々が引きもきらず、下の会田宿から見ると蟻の行列のように見えたという。
やがて別の尾根に出て、いくらか視界が聞ける。そこにまた自然歩道の道標がある。「立峠すぐそこ」と親切なものである。
そこからはほぼ平らな道で、北に向きを変える。少し行くとまた上り坂になり、稲妻形に上る。突然平場に出る。そこが峠の頂上である。
立峠の頂上 標高一O一0メートル。四賀村と本城村の村境である。今はどちらも東筑摩郡であるが、平安時代までは筑摩郡と更級郡とを分けていた。
頂上は広場になっている。苅谷原峠の頂上と似ている。木立に固まれていて眺望はよくない。昔ここに左右二軒ずつの茶屋があったという。一番大きな茶屋は「みたらしや」という。右手に石垣が残る。(頂上の説明板には「みたらしや」となっているが、他の資料では「見晴屋」とするものもある)。
その他道標や説明板が立ち賑やかである。
自然歩道の道標
唐鳥屋城への道標
唐鳥屋城入口の標柱
茶屋跡の標柱
説明板
唐鳥屋城 立峠頂上から尾根伝いに右へ上る。説明板によると寛正年間(一四六01六六)乱橋(本城村)に館を構えていた藤沢帯万が築いた要害で、天文年間(一五三二1五五)に小笠原氏に亡ぼされた。藤沢氏は木曽義仲の四天王の一人、小県の海野氏の一族で、
寛元二年(一二四四)藤沢大道という者がこの地を拝領していた。帯万はその末商と思われる。
峠からは道幅が広くなり、坂もなだらかで歩き易い。
馬頭観音 一00メートルほど下ると左へカーブするが、その左側に把られている。高さ約六0センチの舟形の石に立像が陽刻されている。
そのすぐ先に丸い屋根のコンクリートの小さな建物がある。鉄の一扉に鍵がかかっている。用途はわからない。
同じようなものが苅谷原峠上り口にもあった。
地蔵原の地蔵尊 さらに二00メートルほど下ると、左手の木立の中に地蔵尊が立っている。そばにある本城村教委の「地蔵原」という白い標柱が目印である。高さ約一メートル。舟形の石に立像が陽刻されている。先端の尖った部分が欠けている。
「宝永五歳戊口四月」(一七O八)と年号がある。五は六のようにも見えるが、宝永六年は「己丑」で、五年は「戊子」であるから五と読んでおく。
地蔵尊の近くに清水が湧いている。
古峠 古代飯ご蹴艇ず別れて越後国府へ通じていた東山道の支道は、近世の立峠より少し西の古峠を越えて、この地蔵原に下っていたという。古峠付近には今も道筋が明瞭に残っているという。しかし、この地蔵原付近では道形ははっきりしない。古峠を越えたとすれば清水の湧く水場があるここへ下ったことは充分考えられる。
地蔵原から二00メートルほど下ると、右側の道端に高さ四0センチほどの無銘の石がある。表面が平らになっているが、何も書いてない。さらに少し下り右へ大きくカーブするところに木の道標がある。峠の方に向けた腕木に「立峠」とし、柱に「芭蕉の小道」と書いてある。この善光寺道の旧道を芭蕉の小道というらしい。
石畳道 その道標の先から石畳道になる。石畳になったのは明治になってからという。近年にも補修されたようで、新しい石も混じっている。
また少し下ると「短い直路」という標柱(本城村教委)があって、道が分れている。曲がりくねった本道を縫うようにしてまっすぐ上る間道があったのである。この先に「短い直路」の標柱がある。
やがて道はほとんど平坦になる。その時左側に馬頭観世音(文字)がある。「天保十二口口月」(一八四一)と年号がある。(あるいは「天保一五」かも知れない)。右手には川をせき止めた大きな堰堤がある。苅谷原峠の苅谷原宿入口付近と似た風景である。
間もなく右手から下ってくる車道と合流する。峠の上り口で別れた花川原峠を越えてきた道である。その合流点に道標と付近の案内図が立っている。
左手の斜面の上に高さ約三0センチほどの石仏が見えている。近づけないのでよくわからないが、舟形の石であるから馬頭観音と思われる。
花川原峠線に合流して約五0メートル下って行くと、左手の幅の上に一列に並んだ三体の石仏がある。おそらくこれも馬頭観音であろう。立像と坐像を陽刻したもの各一つ。他の一つは文字碑のようである。
その馬頭観音群の前を右へ分れる旧道らしい道があるが、少し先で薮の中に消えている。薮こぎをする勇気があればわずかの距離でまたこの車道に出会うらしいが、今回は車道を行くことにする。そこで車道は大きく左へ旋回している。
乱橋宿の入口で東へ向かって直進する花川原線に、南北に交差する旧道がある。角に自然歩道の道標があり、
立峠へ一・一キロ
聖湖へ一八・七キロ
としてある。
道標は立峠へ上る旧道を指しているので、少し戻ってみたが雑木林の中で消えてしまう。無理をすればさっき分れた所に出られるはずである。実は三O年ほど前に、こちら側から立峠を越えたことがある。その時はここから旧道を上り、前記の分れ道付近に出た。その時途中では少しの間薮こぎをしたように記憶している。
とにかくこれで立峠を越えたのである。その四つ角を左に曲がれば乱橋宿である。