道と一緒になって間もなく、直角に右へ曲がると
麻績宿である。麻績宿は上町、中町、本町と続く東西の町である。
町並みはすっかり新しくなったが、まだ宿場の面影を残している。入口付近左側に大きな瓦屋根と白壁の家があり、右には外縁に格子戸、軒うだつを上げた家がある。
法善寺入口の石造物群 宿場に入ってすぐ左手に法善寺参道があり、角にいくつかの石造物がある。
御山獄山口口大権現 文字碑で元治元年(一八六四)の建立。
不動明王像 光背に火焔を掘り出し、剣を持つ像を陽刻。
反古塚手習い師匠で、俳譜を白雄の弟子雄啄に学んだ臼井緩貢の筆塚。文政一O年(一八二七)の建立。
「梅ヶ香は ゆゆしき草紙あらひ哉」
庚申塔 社殿形。
道祖神 舟形の石に双体道祖神を陽刻。
法善寺 石造物群の横を山側へ入る。創建は和銅年間(七O八1一五)といわれ、法相宗で西谷寺と称していたという。永正九年(一五一二)曹洞宗法善寺として中興し、天文二年(一五三三)麻績城主服部左衛門清信が再中興して今日に至るという。信濃三三番観音霊場第一番札所。
本陣瀬戸屋 法善寺入口の次に「うす井」と書いた大きな庵看板を出す家が一時期本陣を勤めた瀬戸屋の臼井家である。門構えの堂々とした造りで、本陣の風格を漂わせている。
服部氏居館跡 瀬戸屋のちょっと先に左へ入る小路がある。入口に「麻績城入口」という標柱(麻績村教委)がある。これを入ると町裏の高台に出て、突き当たりに新しい住宅が二軒ある。山つきの傾斜地なので、石垣を積んでいかにも居館跡に見える。案の定そこに麻績村教委の「麻績氏居館跡」の標柱が立っている。
麻績古城と麻績城 居館の裏山に二つの城があった。
居館跡の住宅を回り込んで上って行くと道が二手に分れる。そこに、「右麻績城入口、左虚空蔵山城入口」(村教委)の標柱がある。左は居館に続く低い尾根(標高七九0メートル)で、そこに虚空蔵山城(古城)があった。
右はその尾根に続く城山と呼ばれる高い山(標高九四0メートル)で、山上に麻績城があった。
なお、居館跡へ行く小路の東側には郷倉が、西側には薬師堂があったといわれるが、今は両方ともない。ただ古い字の消えた標柱らしいものが転んでいる。それがどちらかの位置を示すものと思われる。
本陣中橋 法善寺入口を過ぎると中町で、少し進むと丁字路がある。右へ行く道はJR麻積駅へ通じている。その突き当たりの位置に門構えで土塀をめぐらせ、老松が枝を張り出している家がそれである。中橋という屋号で、本障を勤めた臼井家である。元禄から享保の頃は松本藩麻績組の大圧屋も勤めた。
芭蕉句碑 本陣の前の家も瓦葺の土塀をめぐらせた旧家で、旅龍屋花屋(臼井平右衛門宅)であった。塀の角に白と黒の石を扉風のように立てて二句を刻む。
芭蕉更科紀行より
身にしみて 大根からし 秋の風
ひょろひょろとなお露けしゃをみなへし
この句碑は戦後に建てられたものという。
宗善寺 本陣中橋の横を左へ入る小路を行き、山に突き当たるところに墓地がある。その右側の平地が宗善寺跡という。本尊は十一面観音、曹洞宗。信濃三三番観音霊場第二番札所。
明治の廃仏製釈の嵐で廃寺となり当時の本陣臼井忠兵衛氏(中橋)が邸内に総槍造り、六角の小堂字を建てて本尊を安置した。後の土塀を利用してガラス張りの棚に自ら刻んだ木彫りの五百羅漢千余体を並べていたという。その後本尊は第一番札所法善寺境内の四阿屋山の肩額がかかる観音堂に移されていたが、平成一四年法善寺近くにお堂が完成し安置された。一緒に臼井忠兵衛定信氏が彫った羅漢のうち一六体も納められた。法善寺の横の道を上って行くと信濃観月苑があり、その上の山の尾根にある。
光明寺 旧宗善寺の東寄りにあったが、これも今は墓地のみが残る。岩殿寺末。天台宗。麻績城主服部左衛門が母堂を弔うため中興したという。元禄の頃は本堂や庫裡をもっ立派な寺であったといわれるが、明治以前にすでに廃寺となった。明治になって一時光明寺学校として使われたという。
街道にもどって中町を行く。本陣中橋の先、左側にある大きな瓦屋根、白壁の家は酒屋の大和屋である。
中町公民館の前に麻績村の道路原標がある。
問屋 麻績宿には問屋が二軒あった。上問屋は中町公民館の次の家で、丸みをつけた瓦屋根なのですぐ分かる。岩淵氏が世襲した。下問屋はその向い側、少し手前の空地のところにあった。芹沢氏が世襲した。その近くに高札場跡の標柱が立っている。
間もなく本町の信号がある。横切っている広い道は国道四O二一号線である。そこはかつての鈎の手で、街道はくの字に右へ折れている。
麻績口留番所跡 間もなく左側に海善寺参道がある。番所はその左手の角にあった。麻績村教委の標柱が立っている。番所は女の出入、穀物、馬、塩、麻などの荷物を改めた。
事保一O年麻績村は幕府領になったので一日一廃止になり、延享元年(一七四四)に再開されたが、それも宝暦四年(一七五四)に廃止された。
海善寺 番所跡の小路を入ると海善寺である。天台宗。麻績城主服部左衛門清信と子清正の墓(五輪塔)がある。この寺の住職となった海順坊(清信の弟)が建てたものという。服部清正は武田信玄に攻められた時、越後の上杉謙信を頼った。後その後楯により一時麻績城を回復したが、武田氏滅亡後松本城主小笠原貞慶に内応したため、上杉景勝に攻められ、天正一一年(一五八二一)落城し、処刑された。
海善寺前の道標 境内入口右側に善光寺道の道標がある。細長い自然石で、高さ約一メートル。実は三O年ほど前に二度猿ヶ馬場峠を越えたことがある。その時これを見て善光寺道の道標らしいと分かっていたが、全部は読めなかった。ところが『麻績村の石造文化財』に次のように解読されていることが分った。
南元阿弥陀悌 施主敬白
天和二壬成稔三月日
是よ利ひた里ぜんかう寺道
「左」とは海善寺の方から見てのことと思われる。海善寺に参拝してまたもとの街道までもどらずに、左へ行く道が善光寺道へ出る近道だとしているのであろう。今もその道があり、約三00メートルで街道に出る。天和二壬成稔は一六八二年でかなり古いものである。
海善寺入口の反対側に大きな「南無妙法蓮華経」塔がある。その塔の横を右(南)へ入ると神明宮がある。安政初年(一八五四)頃の麻績町々割図に載っているお宮である。入口に嘉永六笑丑年四月吉祥日と年号がある大きな常夜燈が立っている。
そこから一00メートルほど進むと左手に筑北中学校の校庭がある。そこで直角に左(北)へ曲がる。そのまま進むと麻績村宮本地区にある神明宮の前を通り、上田市方面に通じている。途中「一本松峠」、「古峠」を越えて善光寺平に行くこともできる。古代には一本松峠や古峠越えの道が利用されていたといわれるが、戦国時代以後は猿ヶ馬場峠を越えるようになった。
道標 その曲がり角に善光寺道の道標があった。三0センチ角、高さ約一メートルの石柱。
右 うゑた道
左 せんかう寺道 於ミ町
今この道標はここにはない。聖博物館の庭に移されている。代わりに「道標跡」の標柱(村教委)が立っている。
麻績神明宮 筑北中学校の道標のところを左へ曲がらないで直進すると、田中の道で、最初の集落が宮本村(麻績村宮本地区)である。集落中央左手に大鳥居がある。
平安時代麻績は伊勢神宮領であったが、その麻績御厨鎮護のため勧請されたものという。
社殿は本殿、仮殿、拝殿、神楽殿、舞台があり、いずれも平成五年四月二O日重要文化財に指定された。その他境内に宝暦四年から坂木陣屋の代官を勤めた天野助次郎を杷る天野社がある。天野助次郎は当地の中山道の助郷を免除するよう尽力したので、住民等がその徳を慕って建てたという。境内には千年杉があり、県の天然記念物に指定されている。
東山道麻績駅 錦織駅(四賀村)付近で東山道から分れて越後国府に向かう支道が麻績を通っていて、駅が設けられていた。その麻績駅は宮本付近にあったといわれている。常置駅馬は五疋であった。麻績駅からは一本松峠、または古峠を越えて善光寺平に出ていたと考えられている。
筑北中学校を右に見て、猿ヶ馬場峠への道を上りはじめる。左は広い田んぼで、その向うに海善寺が見える。田の中を一筋の道がやって来て合流する。この道が前記の「是よりひだりぜんかう寺道」の道であろう。しかし、このあたりの回は区画整理事業で大きな田に作り変えられ、それにともない道もつけかえられているから、昔のままの道ではないかもしれない。
中学校の正面前で右へそれで行く道から分れて、直進する細い方の道へ入る。
麻績宿の昔 麻績村には古墳が多く、古墳時代から聞けていた。古代には更級郡に属し麻績郷と呼ばれた。延喜の官道といわれる東山道の支道が当地を通り、越後国府を目指していた。当時の麻績駅は宮本地区にあったとみられている。
平安時代末、麻績郷北部八ヶ村が大神宮御領となり、麻績御厨と呼ばれた。その後一時平正弘領になったが、保元の乱で没収され、後白河法皇の後院領となった。しかし、間もなく皇大神宮に返された。鎌倉時代に新補地頭として下総から服部氏が入り、麻績の町はその城下町として発展した。
戦国時代服部左衛門清信が中町裏に居館を持ち、虚空蔵山に拠り、ついで麻績城を築き要害とした。
成立 江戸時代のはじめ、慶長一八年松本城主小笠原秀政から宿駅業務を命ぜられ正式に宿場となった。領内他の宿場は慶長一九年に宿駅を命ぜられているので一年早いことになる。その頃すでに町が形成されていて、麻績町村と呼ばれていた。
規模 宿の両端に鈎の手があり、その聞東西六町三五間(七一八メートル)であった。宿場内の道中央に用水を流していた。
安政二年、本陣一、問屋二、旅龍二九であった。本障は正式なものではなく、三軒が交替で勤めたともいわれる。
伝馬は二五人、二五疋を常備すべきことになっていた。安永二年、家数一八八、人数九八六、馬三七疋。天保一五年、家数二五八、人数一O三六、馬四三疋。
村高 正保の頃八九一石余、天保郷帳一二九七石余。はじめ松本藩領、享保一O年から幕府領(寛政三年1宝暦四年と天明五年以降は松本藩預かり地)。