原宿からは国道四O三号線を行くことになる。民家はなく田中の道である。少し進むと左に建設会社の資材置場がある。
稲荷山の一里塚 資材置場の前、国道の植え込みの中に一里塚の標柱がある。
史跡 稲荷山一里塚跡 稲荷山町づくり推進会議
このあたりの地名は「一里山」というから、一里塚があったのは間違いなさそうであるが、今塚形は残っている。
南塚(右)は寛永八年の佐野川の洪水で流失したが、左塚には老松があり、昭和の時代まではあったという。正保の信濃国絵図には稲荷山村の手前に一里塚の印があり、「此塚より稲荷山迄拾弐町三間(約一・三キロ)」と書いてある。それからみてもこのあたりの勘定になる。
なお、一里塚のそばに芭蕉句碑があったが、これは治田公園に移されている。
やがて左へ新しい道ができて、大きなショッピングセンターがある。国道はその道になったようで、善光寺道は旧国道をそのまま進む。そこからは左右住宅である。右手に千曲市立西中学校を見てなお行くと、治田町である。稲荷山の町に入ったのである。やがて治田町の信号がある。そこで南北の県道長野・上回線に斜めに合流する。善光寺道は左へ行くのであるが、反対に南へ行く道は県道と旧道の二筋あって、いずれも八幡神社へ通じている
分去れの道標 交差点の西南の角にミニ公園があり、そこに大きな道標がある。高さ約二メートル。
右 西京街道
左 八幡宮道
と太い字で彫つである。年号はない。善光寺の方から来ると突き当たりの位置である。以前は反対側の角にあったと記憶しているが、新しくできたミニ公園に移されたのであろう。八幡宮道との聞に立っているので、この方が道標としてはいい位置である。
ここで八幡宮(武水別神社)と月の名所長楽寺に寄って行く。
武水別神社「お八幡さん」と呼ばれ、広く信仰を集めている。祭神は武水別神、誉田別命、息長帯比売命、比昨大神である。主神の武水別神とは天之水分神と国之水分神を合わせた神で、水や農業の神という。署田別命は応神天皇のことで、八幡大神ともいわれる。息長帯比売命は応神天皇の母。神功皇后のこと。
比咋大神は神宮皇后や応神天皇と縁の深い神で、宗像三神といわれる航海安全、交通運輸の神とされている。
三神とは奥津島比売命(多紀理比売命)、多岐津比売命、市杵島比売命である。創建は社伝によると孝元天皇の御代といい、貞観八年(八六六)六月一日従二位を授けられ、同九年三月二六日官社に列せられた。
神社がある八幡地区は平安時代石清水八幡宮の荘園で、その別宮として勧請されたとみられる。神社の応永三年
(一三九六)の党鐘、嘉吉三年(一四四一二)の釣燈龍、寛正三年(一四六二)の鰐口などには「八幡宮」と記さ
れているという。天保八年(一八三七)三月七日社号を武水別神社に改め、武水別神を主神とした。今でも八幡の「お八幡さん」ということが多い。
治承五年(一一八一)六月、木曽義仲が横田川原で平氏の城資職との合戦に際し、楯親忠に戦勝を祈願させた。戦国時代には長尾景虎(上杉謙信)も願状を奉納し武田信玄討滅を祈願している。江戸時代、幕府から二OO石の御朱印地が与えられていた。現社殿は諏訪の立川和四郎富昌の作で、嘉永三年(一八五O)の再建。親、龍、牡丹などの彫刻が見事で、江戸末期の代表的建築とされる。(治田町の道標から約一・五キロ)
長楽寺 天台宗、本尊は阿弥陀如来。信濃三三番観音霊場第一四番札所。明治初期の廃仏段釈の時古文書類を失い、寺の歴史は不明という。観音堂は元禄七年(一六九四)の再建で、杷られている聖観音像は中国の善導大師の作という秘仏。冠着山(摸捨山)の北麓にあって、境内には焼石と呼ばれる巨岩があり、棄老伝説の寺としても知られる。また、古来月の名所としても名高く、和歌、俳句に詠まれている。
芭蕉は貞享五年(一六八八)美濃から木曽街道、善光寺道を下り、八月一五日にこの寺を訪れた。『更科紀行』はその時のもの。
悌や 填ひとり泣く 月の友
と詠んでいる。
この句碑が境内にある。加舎白雄が中心となり、「信一州連合資」により明和六秋八月望」の建碑である。その他多くの歌碑、句碑などがある。
(車なら武水別神社前を直進し西南へ上り坂約一・七キロ。電車ならJR填捨駅から約0・五キロ下る)。
道標の交差点のすぐ先に四つ角がある。その手前右側の位置に、かつて上田藩の番屋があったという。今そば屋の駐車場になっている。
お地蔵さん 右側向うの角に大きなお地蔵さんが坐っている。年号は見当たらないが、天保の頃の古図にも載っているという。
治田神社 四つ角を左へ行くのは治田神社の参道である。入るとすぐ古井戸が残っていて、横に道祖神(文字)と二十三夜(文字)塔がある。その先にある大鳥居をくぐって進む。約一キロ先にある。
延喜式神名帳に治田神社とあり、いわゆる式内社である。祭神は治田大神、事代主命、倉稲魂命。
隣村桑原村にも治田神社があるが、もともとは一社で稲荷山城筑城によって城下町ができて、桑原村から分社したものとみられている。
境内には町内の市神社が集っている。治田町、上八日町、中町のものは名札があるが、ほかに石造りのもの一社(名札はないが寄進者の住所からみて本八日町のものらしいて自然石に「高市」と刻んだもの一社(上半分欠けている)がある。
ほかに道祖神(文字)、馬頭観世音(文字)、庚申塔(文字碑、講中寛政九丁巳二月吉日の銘がある)、石嗣などがある。
芭蕉句碑 治田神社一帯は治田公園になっていて、池のほとりに稲荷山の一里塚にあった句碑が移されている。高さ約二メートルの大きな自然石。
表 芭蕉翁師走塚
右横 何に此 師走の市にゆくからす
左横 文化元甲子年十月
『善光寺道名所図会』に、「左の方田の中に大石の句碑あり」と出ている。著者が善光寺道を通ったのは天保元年から二年(一八三01一二一)にかけてだとされているので、この句碑はすでにあった。
もどって街道を行く。稲荷山の町は治田町から上八日町、本八日町、横町、仲町、荒町と続く。
極楽寺 お地蔵さんから約一00メートルの右側にある。京都智思院末、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。木曽義仲の創立ともいわれるが、寺伝では文永一O年(一二七一二)の開基という。はじめ桑原村にあったが、天正一一年(一五八三)上杉景勝が稲荷山城を築いた時中町に移り、寛永一四年(一六三七)現在地に移った。鐘楼は天正の頃のもので稲荷山で最も古い建物という。
参道には高さ約二・五メートルもある「馬頭観世音」(文字)のほか笠塔婆形の供養塔(宝永三天成十一月四日)、「奉納百番観世音菩薩供養」塔、宝暦の「無量寿宝号百万遍供養塔」、「溺死供養塔」などがある。
蛇枕石極楽寺入口の畳一枚ほどの平らな石である。
説明板の文をそのまま借りる。
「昔篠山の雨池に大蛇が昼寝のとき枕にしていた石です。日やけで困ると里人はこの石に縄をかけ(ゆすって)雨乞いをすると必ず”おしめり”があったという。
ある干ばつの年あまり動かし過ぎたため大雨となり「かに沢」や「荏沢」が大洪水となって小坂、元町の家や畑が押し流された。(そのとき)蛇枕石はここに流れついたのです。「桑原村誌」、「信濃の民話」より」
城小路の井戸 極楽寺から約一00メートルで国道四O三号線と交差する。善光寺道はそのまま横切って進むが、ちょっと寄り道をする。
国道を五0メートル右へ行ったところに古井戸が残っている。井戸の近くで国道から鋭角に分かれている小路があるが、それが城小路に続く道だという。傍らにある碑は、
史跡 城之井戸
城小路
となっていて、案内板には、
「城小路の井戸はかつてこの地域が稲荷山城の城下町であった頃、城へ通ずる路として利用された小路(城小路)の道脇にあることからこう呼ばれるようになったといわれ、現在ではこの井戸が唯一その小路の存在の証しとして残されています。」
としてある。
街道にもどって本八日町を北へ進む。稲荷山町の中心商店街で賑わいを見せている。稲荷山は江戸時代は宿場町として、明治以後も商業の町として各種の問屋が店を構え大いに栄えていた。土蔵造りの老舗が多い。
本陣・問屋 さて、古さと新しさが入り混じった町を行くと道は突き当たりになる。その手前に右へ入る小路がある。小路の先の冠木門を構える旧家が本陣・問屋の松木家である。その小路は問屋小路という。
問屋 小路の入口反対側には高札場があったが、今はない。街道はそのすく先で直角に右へ曲がる。横町という。そして、またすぐ左(北)へ折れる。そこは仲町である。町中で鈎の手が二つ重なっている。
その角の白麹を商う(合)米清商店が、天明五年からの一時期間匡を勤めた田中家である。土蔵造りの古い建物をよく残している。横町側の二階に「官許清明丹」という古い看板を掲げている。江戸時代から明治にかけては薬も商っていたと思われる。
北信ロマン街道 横町から仲町へ曲がる右手の角に稲荷山郵便局があり、その前に新しい案内板が立っている。それによると、
「この角から東へ行く道は北信ロマン街道とよぶ現代の街道で、松代、小布施、中野、飯山から越後十日町方面に通じていて、ここがその起点である」という。
この道は江戸時代からあって、千曲川筋を通るので「谷筋道」と呼ばれていたが、明治以後は「谷街道」といわれた。このうち屋代、松代、川田、綿内の聞は北国東脇往還(松代通り)と重なっていた。今この道のほとんどの区聞が国道四O三号線になっている。
稲荷山城 北信ロマン街道の起点の東付近一帯に戦国時代稲荷山城があった。この道は城の馬出し跡といわれる。『善光寺道名所図会』にも「堀跡が残っている」と書いてあるが、今は何も残っていない。本陣の前の道(東町通り)を南へ少し行くと「稲荷山城祉」という大きな石碑が立っている。稲荷山観光協会が昭和三五年に建てたもの。
城は総構五町四方(五四五メートル)、本丸は一町四方(一O九メートル)の平城だったという。城祉の碑の傍らにある案内板(稲荷山町会つくり推進会議が設置したもの)には「東西一五五メートル、南北一七0メートルの平城」としている。また、この地は城中の櫓台の跡で、銅錦の形をしていたので、鍋錦山と呼ばれているという。稲荷山城は天正一O年(一五八二)六月、織田信長が討たれ、海津城(松代城)にあった信長の臣森長可が逃げ帰ったあと、同年七月上杉景勝が北信濃一円を版図に収めた時、松本城の小笠原貞慶に対する押さえとして、天正一一年頃築かれたといわれる。稲荷山の町はその城下町として造られ、その後宿場町として発展した。
問屋田中家の前で北に向かった善光寺道は仲町、荒町と進む。この通りには土蔵造りの堂々とした商家、軒卯建をあげる家、格子戸の家などが多く残り、江戸時代、明治、大正にかけての繁栄振りを物語っている。
城見橋 約一五0メートル進むと右手に土蔵造りの大きな旧家(清水家)がある。その裏手に小さな川が街道を横切っている。今は舗装道路で、川があるかないかさえ見逃しそうであるが、その小川が「西川」といい、架かっていた橋が城見橋であった。今そこに「史跡城見橋」という標柱が立っている。
西川の先から荒町になる。
長雲寺 荒町の左側にある。真言宗。正徳年間の再興で、この時仁和寺の直末になった。所蔵の愛染明王像は国の重要文化財。寛文一三年(一六七三)の作で江戸時代の秀作という(収蔵庫内にあって普段は見ることはできない)。
荒町の北の端は丁字路で今度も右へ曲がる。約一00メートルで信号のある交差点があるが、そのまま直進する。するとすぐ分かれ道がある。これは左手の道を選んで北に向かう。
道標 その角に道標がある。幅三0センチ、高さ約一・三メートルの三角形の石で、頂点を街道に向けている。左右の面に道標を刻む。
右 東京並屋代道
左 せんこうし道 施主小出運平
年号はないが東京としているから明治元年七月以降である。
その角の家の人に聞くと運平氏は現当主の曽祖父で、言い伝えによると善光寺へ行く旅人が間違えて、屋代道の方へ行ってしまうのを見かねて、明治の終わりか大正のはじめ頃自ら道標を建てたのだという。
稲荷山宿の昔 天正二年上杉景勝が稲荷山城を築いた時、その城下町として誕生した。江戸時代になって慶長七年頃、桑原村から当村に宿駅が移され、同一九年頃までに北圏西脇往還(善光寺道)の稲荷山宿となった。伝馬のお定め人馬は二五人二五疋であった。
本陣兼問屋は一時田中家が問屋を勤めたほかは、江戸時代を通じて松木家が兼務した。
旅寵は初期には三O軒もあったが次第に振るわなくなり、天保二二年には旅龍六、茶屋一O軒であった。同年の商人をみると、太物綿商人三三、呉服物六、小間物六、豆腐匡四、鉄物三、肴三、茶三、豆腐揚屋三、穀、塩、傘、紙、瀬戸物、菜種、かんざし、足袋、煙草屋などの商売屋があり、町場として相当な賑わいをみせていたと思われる。
村高 正保の頃七O二石余、天保郷帳七七四石余。なお厳しかったことで知られる慶長七年の右近検地(森忠政)では九五O石余を計上した。
宝永三年家数二O六、人数九O四、馬二八疋。文久二年家数回三六、人数二ハ一五。
領主 はじめ松代藩領(慶長五年森忠政、同八年家康の六男松平忠輝、天和二年松平忠昌、同四年酒井忠勝)、元和五年酒井忠重(酒井忠勝の弟忠重に分与した領地一万石八ヶ村の一つ)、同八年上田藩領、享保二年幕府領、同一五年からは上田藩領。