小出さん宅の道標に従い左の道をとり北へ進む。そこからは塩崎村(長野市篠ノ井塩崎)分である。左は田、右はリンゴ畑の道を約一キロ行くと集落があり、東西の道に突き当たる。左は長谷寺の参道で、右が善光寺道である。宿場入口の鈎の手のようである。その角に長谷寺の標石と常夜燈がある。
標石 高さ約二・五メートルの大きなもの。
日本長谷観世音菩薩道
三所
(横)干時天明コ一笑卯天四月吉祥日
長谷寺現住
法印慶光代
常夜燈 燈身に「常夜燈塩崎村 常夜燈 寛政口口」とある。
長谷寺 標石から西へ一キロ余の山裾にある。本尊は大日如来、真言宗智山派。観音堂には十一面観音が杷られている。奈良、鎌倉と並ぶ日本三大長谷といわれる。信濃三三番観音霊場第一八番札所。
寺伝によると開基は野明天皇(五九三六四一)の頃白助翁(允恭天皇六世の孫)が大和から十一面観音を勧請したのがはじまりという。
養和元年(一一八一)木曽義仲の兵火で焼失、正応三年(一二九O)鎌倉幕府八代将軍久明親王が執権北条貞時に命じて寺領を授け再興した。徳川家康は一五石を寄進した。現本堂は延吉子三年(一七四六)、観音堂は正徳三年(一七二二)の建築。
八月九日の夜雨乞いの夏祭りに行なわれるコ二十三献燈」は享保年聞から伝わるもので、長野市の民俗文化財に指定されている。また、善光寺で毎年一月七日から一五日まで行なわれる「おはん頂戴」という行事があるが、その御判が善光寺に三つ、戸隠に一つ、この寺に一つずつ伝わる。
五印文といい、昔は善光寺参りの帰りには必ずこの寺にも参詣して「おはん」を頂戴したそうである。
長谷寺大門のところで右へ折れた善光寺道は、約一00メートルで今度は左へ曲がる。街道からはそれるが反対に南の方へ行くと大棒がある。稲荷山宿を出たところからずっと前方に見えていた木である。近づいてみるとその大きさに改めて驚かされる。
ちなみに北国街道関川宿の関川天神社の大杉が、樹齢一000年とかで一番大きいが、それより太いと思われる。そこはもと小田井社と八幡社があったところで、今は蚕大神、琴平社、秋葉大権現、天満宮などを杷る社地である。
街道にもどる。
このあたりは塩崎村の中心地のようで『善光寺道名所図会』の表現を借りれば、家が「相対して巷をなす」。
天用寺 間もなく左手に天用寺(浄土宗)がある。高い塀を巡らせた門内に徳本上人の「南無阿弥陀仏」の名号碑(文化二二年の建立)がある。領主松平氏の位牌所という。
徳本上人 紀伊国の人、姓は田伏氏(一説布施氏)、宝暦八年六月二四日生まれ、文政元年入寂、六一歳。浄土宗捨世派の念仏行者で全国各地を巡錫した。信州へは文化二二年に巡錫し、各地に念仏講を組織し、講中のものが記念に徳本名号碑を建てた。北信に六二基あるという。
信州巡錫中に名号札を下付された念仏講は九三三組で、掛軸にして念仏講を開いた。天用寺には三日間逗留し、その間名号札を授与された者一一二三七人に上った。徳本上人は紀州徳川家、後には徳川幕府からも信仰を集め、弟子の数二OOO人に上ったという(『塩崎の石造文化財』――塩崎文化財保存会)
天用寺から二00メートルほど行くと左へ分かれる道がある。JR稲荷山駅へ行く。反対側は塩崎小学校で、入口に塩崎村の道路原標がある。昔小学校のあたりに領主松平氏の陣屋があったという。
左手の角、二階建ての倉庫がある門構えの家は、旗本松平氏五千石時代の大庄屋を勤めたという清水家である。
康楽寺 清水家の裏の左へ入る道は康楽寺参道である。入口に「高祖聖人法然聖人御旧跡」の標石がある。なお、ここには昔高札場があったという。開基は西仏坊で建暦二年三二一二)といわれる。本尊は阿弥陀如来、浄土真宗本願寺派。近世まで信越の布令頭であった。
西仏坊 そこにある案内板によると、西仏坊は幸長、浄寛最乗坊信教、木曽大夫坊覚明といういくつかの別名を持つ。清和天皇の後商、海野小太郎信濃守幸親の子として天養元年(一一四四)小県滋野の海野圧に生まれ、南都興福寺勧学院の文章博士となる。平清盛を筆訴した名文は今に知られ、伊勢神宮の祭文は宝物として現存し、源平盛衰記、吾妻鏡、徒然草忽どにもその名が現われる。また、平家物語の作者、信濃前司行長はこの人ともいわれ、中世文学史に輝かしい業績を残している。
市神さん 康楽寺から少し先の左側、渡利広氏宅入口に高さ約一メートルの頭の尖った自然石が置かれている。
この立石は市神さんだという。『塩崎の石造文化財』によると、宝永三年(一七O六)の古文書に「当村市場に無一一御座一候、但毎年七月十二日、極月(十二月)晦(晦日)、近郷より当村に罷出売買仕候Lと記してあるという。この時以前から市神さんを中心として市が立っていたようである。なお、同書に当村から稲荷山へ一八丁、善光寺へ三里半の道のりだとしている。
このあたりは塩崎村のうちの角間組である。さらに少し進むと左側に大きな「天満宮」碑がある。嘉永五年(一八五二)の建立。左横に「法然堂八世源説筆子中」とある。道はだんだん右へカーブし、北東へ進む。やがて左側に大きな常夜燈が立っている。「金比羅大権現天保十一年庚子十一月吉日講中」と銘がある。ここは八幡脇堰と下柳堰の合流点で、しかも道が曲がっているので、暗夜などには行き交う人馬が川に落ちることが多かった。そこで角問、山崎両組の有志が無尽講を結成して建てたものという。かつては講中の人達によって毎夜献燈されていた。
その常夜燈の反対側には馬頭観世音(文字碑)と男神様らしい自然石が並んでいる。地元の人によるとこれは女神様(女陰形道祖神)だという。その背中合わせに徳本上人の名号碑(文化二二年建立)、六地蔵、石仏群が並ぶ浄信寺入口がある。奥に小さなお堂と墓地が見える。
間もなく左側に山崎地区の公民館があって、庭には背の高い石の上に不安定に乗った小桐がある。おそらく秋葉山と思われる。秋葉山はどこでもこのように背の高い石の上に杷られることが多い。
聖川を渡る。ここからは塩崎村のうちの平久保地区になる。続いてすぐ中央道長野線の下をくぐる。少しの間民家が途切れる。
また、家が左右に連なるようになると右手に姫宮神社がある。境内に二鶏二猿を陽刻した家形の庚申塔、二十三夜塔(文字)がある。姫宮神社から二00メートルほど進むと十字路がある。
右は新しくできた道で、左へ行けば作見集落を経て篠ノ井駅方面に通じている。
塩崎の一里塚 その十字路の少し手前左側に梅の木が一本ある畑があり、奥の物置の軒下に「史跡塩崎一里塚跡塩崎文化財保存会昭和六十二年十二月建之」という標柱が立てかけてある。当家のご主人田中茂雄さんに聞くと、一里塚の標柱はもとその畑の道端にあったが、倒れたのでここに置いているという。また、その畑と田中さんの住宅にかけて、公図上に一里塚を示す形の別地番の土地があったが、この家を建てる時宅地に合筆したという明確な説明で、ここに一里塚があったのは間違いないと思われる。
なお、『塩崎村史』によると、文化九年の村絵図にこの付近に一里塚の印があるという。また、天保九年御巡見使土屋様がお通りになった時、この一里塚についてお尋ねがあり、御賀龍脇に付き添っていた割番清水氏と庄屋丸山氏が、この一里塚は桑原村と稲荷山村の間にある一里塚からの一里塚である旨答えた記録があるという。
塩崎の一里塚跡から約四00メートル行くと、右手から同じくらいの幅の道が来て合流する。それがいわゆる北国街道である。矢代宿から千曲川を船で渡って来たのである。善光寺の方から来ると、ここが江戸と伊勢、京への分去れである。その角に「北国街道篠ノ井追分宿跡」の大きな碑が立っている。昔はその角に柳屋という茶屋があって、別れを惜しむ旅人で賑わっていた。『善光寺道名所図会』に茶屋の繁昌ぶりの絵が載っている。この分去れはその位置が何回か変わったようである。
『塩崎村史』に引用された天保一二年の古文書によると、千曲川の川筋が変わったため、舟渡し場がこれまでの唐猫(刺良根古)神社近くから小田井神社東方(大棒があるところの東)に引き上げられたので、上町石鳥居のところが江戸、京都の追分になったとしている。
その文書はその他、享保元申酉年(注)に町頭が追分になり、寛保三亥年また追分になり、その後天明五年には横田村分へ舟渡しを引き下げ御平(幣)川村が追分になったと記している。
(注・享保元年は丙申で、同二年は丁酉である。申酉といういい方はなく、もとの文書の間違いと思われる)。なお、元禄一五年の信濃国絵図では、篠根村の京方の出はずれに塩崎の一里塚が描かれ、その南で南進する善光寺道から鋭角に左に分かれる北国街道を書き、矢代宿の西、塩崎村との間付近で千曲川を渡っている。これも刺良根古神社よりでずっと西南ということになる。
このように、千曲川の川筋が変わるたびに分去れの位置も変わり、軒良根古神社近くの篠ノ井追分以外に分去れがあったのは都合五回もある。
篠ノ井追分宿の昔 分去れ付近は篠ノ井追分宿といわれていたが、聞の宿で正規な宿場ではなかった。行政上は塩崎村のうちで篠ノ井村、篠根村、篠ノ井組とも呼ばれた。一時期本村の庄屋とは別に篠ノ井村にも庄屋が置かれたことがあり、その後塩崎村、山崎組、篠ノ井組の三庄屋制になったこともあった。
もともと塩崎村は大村で、『正保書上』では二八五三石余、『天保郷帳』では三OO一石余の村高があり、俗に塩崎三千石と称されていた。塩崎村の宝暦七年の家数回三七、人数二二九五、弘化三年には人数二九七六。篠ノ井追分宿としては天保一二年戸数一O八、うち商売屋三一、居酒屋三、小商七、旅商二、水茶屋九、茶見世一Oを数えた。
さて、北国西脇往還(善光寺道)は、ここで北国脇往還(北国街道)に吸収されて終わる。
北国西脇往還(善光寺道)は、篠ノ井追分宿で北国街道に吸収されて終わるが、「善光寺道を歩く』としているので、北国街道を善光寺まで書くことにする。しかし、それはすでに拙著『歴史の道北国街道を歩く』で書いているので重複は避け、略図と簡単な説明にとどめる。